
かそけくも消えて忘れし紫のクロッカスのまた一輪咲きぬ
紫のクロッカス
一本の小松の下に
ひっそりと咲いていた
紫のクロッカス
その二三輪のあわれ
雨風に倒れはや消えしを
我が忘れしを
またひそか一輪咲かむ
かく人も忘れられし人の声
よみがえり聞くことあらむ
人はつつしみ深くあるべきかな
敬意をはらうというとき何に敬意をはらうのか欠けていたのだ。日本語には目的語がはっきりしない、あいまいな表現が多いからだめなのだ。認知症の人に敬意をはらいとか老人に敬意をはらいというとき何に敬意をはらうのか?そもそも人は何にたいして敬意をはらうのか、人は今や容易に敬意をはらうことがない、才能がすばらしいので敬意をはらうのか?才能というとき一部の才が優れているから絵とか音楽の才能が優れているから敬意をはらうというよりその才能に感嘆するとなるだろう。敬意をはらうというときそうしたものではなくその人自身の人柄とか人格に敬意をはらうとなるがそんなこと現代では皆無ではないか?特に現代はそうしたものを尊ばない時代である。だから認知症の人とか老人に敬意はらうといことがないのだ。金をもっているとか地位があるとかそうしたものに敬意をはらうというのはあっていない、だから認知症の人に敬意はらう人などいないのだ。無能化したら余計そうである。認知症の人でも障害者でも金をもっていればその金のために大事にされることがあるが敬意をはらうなどありえないのだ。
老人でもただ年を重ねたから敬意をはらうのか、誰でも年取ることはできるのだ。敬意をはらうというとき何に敬意をはらうかが問題なのである。それは長い人生を生きたその長い人生を生き抜いた経験に敬意をはらうのである。長い人生の経験というとそんなものに価値があるのかとなる。財産をどれだけ残したかに価値があると子供は思うかもしれない。しかし金の価値だけで計れない人生の価値がある。例えば自分の大正生まれで糸とり、機織りの絹の生産工場で10年間くらい働いた。この労働もかなりきついものだった。その時代、絹は輸出品であり外貨を稼ぎこれが軍事費に投入されたのだ。蚕は国の中心産業だったのである。そこで女工哀史とかも生まれた。
その後も最初の夫が工場の事故で死んだり戦争直後の食料難とか様々な苦難がつづいた。今の80代以降の人は同じような人生を歩んできた。だから遊びということをほとんど知らない、尋常小学校でてからはただ家のために働くことだったのだ。今でも世界の遅れた国では貧しい家族に仕送りするために出稼ぎにきている人がいるのと同じなのだ。なぜ遊ぶことを知らず遊びに価値を見いだせないのか?金にならないものは全くの無駄としか思えないのか?それは貧乏で金に追われた生活であったからだ。だからこれも無闇に批判もできないのである。これだけ無趣味な働くだけの人生を90生きても認知症になっていないのも不思議ではないか?だから認知症の原因はよくわからないのだ。ただ同じ財産を残すでもニ−トが株で何十億一夜にもうけたという金の価値と苦労の末に残した金とは金の重みが違うしそれよりその苦難の人生経験を知ってはじめて老人に敬意をはらうことができる。そういう人生を生きてきたことに敬意をはらいということなのだ。これは認知症の老人にも同じようにいえるのだ。
つまり敬意はらいというときその人の長い人生経験を知ってはじめて敬意をはらうことかできるのだ。ギャンブルのような金で株でもうけてもそこに人生経験というのがぬけているから老人になったとき価値が認められない、ただ金だけをほしいという人はいるのだ。老人に認知症でも敬意をはらいというときその人生経験に敬意をはらいとなるのだからその人の人生経験を知らないと敬意もはらうことができないのである。90まで生き抜いた老人は特に今の老人は苦難の時代を生き抜いたということでその人生経験に価値があるから敬意をはらいとなるのだ。
I respect to your long experienced life .
老人とか認知症の人に接するときはその背後にある長い人生経験に思いやるべきなことがわかる。これがないと能力が今やないのだから軽蔑の対象にしかならなくなるからだ。老人の価値はその長い人生経験にあるからだ。
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