2012年04月08日

木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)


木蓮(旅の記憶-体で覚えたものは忘れない)



阿武隈の流れの早し春の草

紅梅や東海の海かがやきぬ


木蓮の芽のふくらみて朝風にゆれ遠くへと我また行かむ


峠こえ遠く来たりぬ木蓮の開きて仰ぐ高き峰かな


残雪の吾妻峰光り峠こえ我が望むかも遠く来たりぬ


桃の花もゆるがごとく咲きにつつかなたに望む海の碧かな


日本は海と山の国である。海彦山彦の国である。ただ浜通りには高い山が望めない、阿武隈高原を越えると吾妻とか安達太良が望める。山を見たければ峠を越えねばならない、丸森町から梁川に出て阿武隈川を下る道は圧巻である。桜と桃の花がまばゆいほどに咲いている。別に放射能でも外観は何にも変わらない。ただ阿武隈川には常時億ベクレルの放射能汚染水が流れている。大きい川だから放射性物質を泥と共に集めているのだ。だから魚などは食べられない、でも今はあまり川の魚はあまり食べていない。放射性物質はやはり相当に雨が降り泥にしみこみ川に流れだす、その分山の放射性物質は減ってゆくのかもしれない、そうして長い時間の中で減ってゆくのかもしれない、その待つ時間は長いことは確かである。


ともかく浜通りに欠けているのは高い山である。高い山を望めないことが精神的に貧しくしている。その代わり海があることが景色としては良かった。山に囲まれて住む人は海に憧れる。峠を越えるというとき広々とした海を望むことである。飯館から八木沢峠に出るところから海が見えるのである。飯館村はまだ出入りができるからいい、浪江の高瀬川などは出入りができない警戒区域になっているからこの辺では損である。高瀬川は激流となっているから春に行くと気持ちいいからである。


春になると遠くへ行きたくなるが行けない、明日は病院である。でも旅ばかりしていたから心の中で旅がつづいているのだ。人間は老後になるとこれまで何をしてきたか本でも何を読んできたのかふりかえることになるのだ。一生の総決算のように過去をふりかかることになる。自分のしたことを生々しくふりかえり思い出されることになる。それが偽ることなくそうなる。だから悪いことをした人は過去を老人になっても語らない、語りたくないのだ。自分にしても過去の嫌なことは語りたくない、戦争のことが良くわからないのは戦争を経験した人が本当のことを語らないからである。人を殺したりしたことをなかなか語りにくいからである。だから真相は明かにされていないのだ。だから過去を語れる人はその人生は自分なりに納得したものとなっている。それも個としての人生であり組織として生きた人生ではない、自分はこういう罪を犯したとか過ちをしたとか言っている人は自分に正直なのである。


いづれにしろ旅の記憶でも時々ふいとあんなところに自分がいたなと思い出すことは不思議である。思い出したときもう一度旅している。思い出すときは体で記憶したような場所なのだ。車とか鉄道とかの旅は忘れやすい、思い出す場所はやはり体で記憶しているような所だったのである。木蓮が風にそよいで咲いているというのを車から見たら印象に残らない。自転車で風を切って走っていれば体で記憶しているから思い出すのである。30年前とかでもそういう所は思い出すことがありそれでまた短歌とか書いている。旅ばかりしていたら旅のことを思い出すし他でも工場で仕事していたらその仕事をしていることを思い出す、そういうことは体に刻まれているのだ。だから認知症になった女性がベットで田植えしていたというのもわかるのだ。
そういうことを長年してきたのだから体に刻まれているから忘れないのだ。それで認知症になってもそういう昔のしたことを料理でもできる場合がありやらせると多少は改善するのだ。料理でも体で覚えているのは忘れないのである。

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