2012年04月06日

春満月(海から出る月と山から出る月の相違)


春満月(海から出る月と山から出る月の相違)


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春満月天の高見に汚されじ

瑞々し海から昇る春満月


春満月匂うがごとき美しき


大石の動かず二つ春満月


水仙や石に風鳴り人入らじ


一番星見つけ明るし春の夕



 血色のいい月
http://miyajimatenki.at.webry.info/201102/article_15.html


蘇州
http://www.musubu.jp/chainasoshu.htm


双塔に春満月の曇るかな


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春満月大河に映えて春満月

春満月大人動ぜず六和塔

今日は春満月だ、月はこの辺では海の方から昇る、海の方から昇る月は大きい、その大きいとき満月を見ないとだんだん空高くなると小さくなるので満月でも見物ではない、これが山国だと山から出る月になるけどその情緒がわかりにくい、常にここでは海を意識している。景色としては田んぼがあったり家もなく広々とした入江のようになっているとかえって気持ちいいということもある。北海道辺りの景色である。津浪がそういう原初の状態に戻したともいえる。ただこの辺は海の方にもともと家は少なかった。それでも地平線と水平線が合体するようになった。海が遠くから見えるのが違っている。


今日見た春満月はにおうようであり水がしたたるようでもある。水も滴るいい男というのは何なのだろう。水分が多いのは若い証拠である。肌もみずみずしいとなる。老人の肌は乾いたように水分がなくなっているからだ。若い人は肌もすべすべしている。それが老人は乾いたような水気のない肌になっている。これも個人差がかなりある。60すぎるとひどく老いて顔になる女性がいる。10才くらい感覚的に違っている。女性の場合は老いることは男より悲惨なのかもしれない、目に見えて現れすぎるからだ。これも無常である。

ともかく満月は大きくないと見物ではない、小さいと満月の感じがない。山国では大きい満月が見れないかもしれない、海だと水平線から昇るからその時いつも大きな満月となっているのだ。

春満月を血色のいいと表現したのはうまい表現である。健康的で血色がいい感じに見える。それは
若い女性の顔や肌なのである。春はエロチックにもなる。エロとは縁がないにしろ白い肌に魅惑される。匂うような感覚もそうである。

自分の場合はここが何とか移動しなくてもよかったのが助かった。警戒区域の人は悲惨である。仮設で春の月を見ることになった。故郷ではもう月を見れないのか?ただ月はべつにどこでも見られる。
ただ山の月というのはこの辺では感覚的わかりにくい、海から昇る月は常に見ている。ところが京都は盆地であり奈良も盆地だから月を歌ったしたら山の月なのである。


ほととぎす今やと思ふ山の端に 月をまつごとなれをこそまで  西園寺実
  「月をまつごと云々」は、月の出を待つように、お前を待っている。
 
京都だったら山に囲まれているから山から出る月なのである。何度も言っているけど地理が地形がわからないと本当に歴史もわからないし芸術も鑑賞できない、会津なら山に囲まれた感覚がわかる。
ところが海に面しているとわかりにくいのである。人はその住んでいる場所から地理から発想している。山国の人はこういう歌は理解しやすいのである。奈良でも京都でも山の感覚の歌である。万葉集でもそうである。深く鑑賞しようとするとき人間は自分の住んでいる場所からイメ-ジするからそこに常に錯覚が生まれているのだ。海側に住んでいる人は山の端から出る月を見ていないのだ。

だからそういう短歌や俳句があっても実感としてイメ-ジされていないのだ。月はどこでも同じ様に出ていても出る場所によってまるで違ったものとなっているのだ。これが外国の平原や砂漠となると全く別なものとなってしまう。地理が場所が文化を作っているのだ。福島県などは広いから会津と浜通りの人の感覚は相当に違っているし文化も違っているのだ。だから福島県自体を知ること自体容易ではないのだ。福島県に住んでいてもそうである。会津は東京より遠い感覚だということがわからないのである。地理には常にそういうことがある。地理から場所から人間は誤解が生まれているのである。


吉野山 さくらが枝に 雪ちりて 花おそげなる 年にもあるかな
『山家集』 第16番歌


吉野山は京都から相当奥であり遠い、飯館村とは違っているかやはりにている面がある。飯館村は標高が高いから春でも雪が残っていたし寒い地域なのである。高原地帯なのである。ただ吉野といったら高い山があるからまた違っている。この辺ではほとんど千メ-トル級の山さえ望めないから景観としては肝心なものが欠けているとなるのだ。


蘇州の双塔はいかにも古い、街全体が古都である。そのすぐ近くに泊まったのでこの句ができた。それも10年くらいたつと印象が薄れてしまった。外国は変わっているから忘れやすいのである。日本だったら地理的に思い出すとイメ-ジできるから詩でも深く理解しやすい、それでも地理から場所からくる錯覚が常にあるのだ。それだけ地理は記憶しにくいのである。

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