2012年04月04日

春の嵐(自然のサイクルに合わせられない人間の文明)


春の嵐

(自然のサイクルに合わせられない人間の文明)

tubamearashi11.jpg

みちのくや嵐の中を燕来る



吹き荒れる春の嵐のなおやまじ日本列島駆け抜けるかも

一夜さに散れる桜や津浪にそのまるる命はかなき跡かな


吹き荒るる嵐に桜咲きにけり世も乱れつつ自然も乱れぬ


津浪来てその爪痕の深きかな春の嵐の吹き荒れにけり




ひと夜さに嵐来りて築きたるこの砂山は何の墓ぞも 啄木



嵐がまだ吹き荒れている。日本列島を縦断した春の嵐だった。啄木のこの歌は津浪にもあてはまる。一瞬にして大勢の命を奪い墓を築いてしまったのである。そういうことがこの世にはあった。
一時に大量の人が死ぬ、戦争でもあったし過去にもあった。それはちょうど桜が咲いてぱっと散るのとにている。九州ではすでに桜が満開だし上野でも花見があった。嵐の中の花見になった。
俳句にすると「時惜しみ嵐の中の花見かな」とかなる。それよりもその時しか集ることができないからあえて花見をしたと言っていた。天候も実際は毎年違っている。ただ天候のことも人は忘れやすいのだ。さすがに津浪のことは一年たっても同じままであり忘れられない、その傷跡が余りにも生々しいのである。すぐ近くで一軒も家がなくなった所を常時見ているからそうなる。これも離れていればそれほどに感じないのだろう。神戸の地震でも広島の原爆についても余り感じなかったのは遠いためだったのである。神戸の地震も実際は相当に悲惨だった。だけどなかなか実感できなかった。
テレビの映像だけではその悲惨さが実感しえないのだ。今回は身近で起こったから実感する。

放射能被害というのもはじめて経験することでありこれも実際に被害にあった人でないと実感しにくい、そして外部の人が福島県を廃県にしろとかそんなところに住むな、移住しろとか簡単に言うことに腹たつのである。遠いて自分に被害がないと人間は無関心でありかえって喜んでいるやつもいる。福島県などなくななれとかしきりあおって喜んでいる。2ちゃんねるは特別にしろそう言われる身になったらそう簡単に移れない人も多数いる。被害者のことを親身になる人は少ない。

故郷自体を失うということがどういうことかまだ被害者自体も良く理解していない、それは切実なものでありそれぞれによって違うにしろそれがどれほど深刻なものか、心にどれほどの影響を与えるのか?自分の場合、田畑が耕されていないことがなんとも荒寥とした気分になる。蕗の薹が芽生え椿が赤く咲いたし梅も咲いた。それは変わりないのだけどそもそも田舎は春田とか春耕とかこれから田植えしたり大地を耕すんだというとき人間にも力がでてくるんのではないか?別に農家でなくてもそういう姿を見ているとき春がはじまるんだなと意識する。それがなくなったときどうなるのか?農家でなくても何か大きく欠けた空虚感に支配される。第一田畑が耕されないということをこれまで経験しているだろうか?減反された田とにている。それが広範囲に広がったという状態と確かににている。でもそれは一部でありやはり全体は田畑は生きている。

都会だったら別に田畑がもともとないのだからこんなに深刻にならないし意識もしないだろう。
工業と商業都市に生きていれば生活の糧は農業ではない、都市から見たとき田舎は農家を補助金つけで能無しなんだとか卑下している。そういう感覚の都市人は田畑がなくても何にも感じない。
それは別に自ら耕さなくても田舎にいれば農家の人と同じ感覚になっているのだ。農家の人が耕していれば自分がしなくてもそういう気分になっている。それが田舎なのである。しかし考えてみると

現代は第一次産業の割合は一割とかでありとすると自然と密接に結びついた生活をしている人は極めて少ない、ということは海を糧として暮らす人や山であれ大地を糧にして暮らす人は少ない、全体として自然から遊離して人は生活しているのだ。津浪にしてもこれは一つの大自然の作用であり地球が受け入れねばならないものだという見方もでている。津浪は海をかきまわすから下にたまった養分が上にあがり栄養分が高い海となり牡蠣などが大きくなったという。ナイル河の氾濫は災害ではない、栄養分のある泥を拡散して実り豊にする自然の作用であり災害ではない、かえってアスワンダムなどをつくったとき洪水がなくなり泥か拡散されず流域では化学肥料を使っている。この栄養分の高い泥は上流のエチオピア高原の岩が泥をつくりだしたということに驚いた。そういう地球的営みの一環としてあった。火山の噴火も津浪も滅多に起こらないにしても自然側では人間に災害をもたらすものとして活動しているのではない、それが地球の営みであり人間に災いをもたらしているということではない。人間の方がその大きな自然の営みに合わせるしか生きようがないのである。津浪の場合は400年に一回とかなるから人間はその自然の長いサイクルに合わせることができなかっただけである。
だから人間が文明を作ったがその文明がかえって災害を大きくした。それは自然が悪いというのではない、人間が自然に合わせないから悪いとなる。

今回の津波災害では嵐の中をボランティアがきてくれた。でもなかなか嵐の中にくるのは大変である。津浪の跡を見るだけで気が滅入ってしまう。ただ放射能汚染地帯にはきてくれなかった。はじめてのことだから怖かったこともわかる。驚怖する人は恐怖する。
これから放射能の影響は生物にどうあらわれるのか?チェルノブエリでは燕など小型化して数が減ったという。
この辺はどうなのだろうか、双葉辺りの原発周辺での生物の状態はどうなるのだろうか?

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