
松川浦名取の人の名を記す遭難の碑に春日さしあわれをとどむ
松川より原釜に至るには中村の方へと少し戻りて、高すか地藏といふ地藏堂のほとりより右に折れて入るなり。「ほつき」といふ貝の殻を幾個と無く尊前に捧げたるは、先刻に見し観音菩薩に瓠(ゆうがお)供へたるにも増してをかしく、貝の裏の白きが月の薄明りにも著く明らかなれば訝しみて土地のものに問ふに、耳遠くなりたるものども自己が年齢の数ほど貝殼を此の御佛に奉りて、復びもとの如く耳敏くならしめたまへと祈り申せぼ霊験(しるし)ある由を云ひ伝へて、然は爲るなりといふ。観音には瓠(ひさご)、地藏には貝殼、をかしきものをのみ供ずるところかなと打笑ひて過ぐ。
幸田露伴 「遊行雑記」の相馬の部を読む
http://www.musubu.jp/somakoudarohan.html
ふつう「柄杓」「杓」と書く)水を汲むための器具。2を縦半分に切って使ったところからいう。ひしゃく。
ヒョウタン・ユウガオ・トウガンなどの果実の総称
瓢箪は中国では、伝統的に薬屋の看板
日本 養老の滝「生命の水」である酒の容器
瓢箪は永遠の生命を象徴するもの
壺中天(壺=瓠)
わたしの耳は貝のから
海の響きをなつかしむ・・・ジャン・コクト-
貝は耳ににている、貝は何か音を聞いている感じに見える。この詩は詩人が特別に感じたことではない、一般人でも別に作家だったり詩人だったりする、そういう素質をそもそも人間は生まれもっていたのだ。民衆の残したものに無数の民話とかも名もなき人が作家になったいたし詩人になっていた。なぜ貝が耳が遠くなったとききくと考えたのかのかそういう詩的な発想があったからである。
そして前にも何回も述べたように人間今でもそうだが病気が一番の悩み事なのである。病気の苦しみは今も一番の問題なのである。耳が聞こえないとなると日常生活で相当不自由するからそうした地蔵ができる。民間信仰が生まれる所以である。貝殻が信仰になったのは海で漁業などを生業としていたからそうなった。瓠をささげたのは長寿を願ってかもしれない、瓠、瓢箪にはそういうことが伝えられている。
橋浦 陸奥国桃生郡橋浦村 宮城県桃生郡北上町橋浦 奥州千葉氏の流れ。女川城主千葉氏の一族か。
橋浦氏は桃生郡に橋浦村があるからそこから移住したのか?千葉氏系統なのか、とにかく橋浦という姓は名取郡にまだあるだろうからその子孫も生きているだろう。明治時代だからまだ子孫が生きている。海では必ず遭難がありそれを記念した碑がある。ただ書類で見るのと碑に記された文字を見るのとは違っている。碑はその場から具体的にイメ-ジされるからリアリティが生まれてくる。これは墓でも同じである。墓の不思議は家はなくなっても墓だけが残っていることがある。そうすると墓が過去を伝えるものとなっている。自分の実家の墓は家がなくなり墓だけが残っている。本当は静岡の方に中卒で金の卵で働きに出て故郷には帰らないはずだった。ところが交通事故になり実家はなくても実家の墓に入ることになった。すると本来は帰らない人が墓に入っているからその人が死んでもいるように意識するのも不思議である。もし墓が静岡の方にあったら墓参りだけで大変だからもう意識すらしなかったかもしれない、墓があるだけその人の存在がなお意識される不思議があるのだ。
記念の碑もそうである。石に記されただけでやはり歴史を伝える重みがでてくる。だからこうした石碑とか墓が郷土史研究では欠かせない生きた資料となるのだ。