新しき花を植えたりつばめ来る
swallows come and
a new planted flower
in my garden
認知症の人に接する心構えとして敬意をはらって接するようにとあるがこれはできない相談である。そもそも敬意という意味が何なのかわからないが今の時代、大衆化、水平化の時代に敬意をらうことなどしない、それを認知症の人に敬意をはらうなどできるはずがない、また敬意という言葉があっていなのである。人間として愛情そそぐとか軽蔑しないとか親切にするとかならわかるが敬意となると今の時代、首相でも社長でも本当に敬意はらっているかというとそれは権力をもっているからであり内心いやいやながらおべっかをつかったりして上の命令に従っているのであり敬意はらうことなどないのだ。それを認知症の人に敬意はらいというのは言うべきではない。そもそも認知症になればものの道理がわからなくなる?我が儘な自分本位の考えしかなくなる。自分の意に反することにはそれがどうであれ従わない、それを強制すると暴力にすらなるのだ。ものの道理がわからなくなった人間に誰が敬意をはらうだろうか?愛情をもって接するとか親切にするとかならいいが敬意まではらう必要はないのである。
認知症が単なる物忘れだけするなら人間としてたいしてさしさわりがないのだ。しかしそれとともに人間の道理が理性が通じなくなる。わがままな人はさらにわがままになり手がつけられなくなる。言うことをきかないと暴力までになる。だから怖いとなる。感情がおさえられなくなる。だから拘束とかされる場合がある。そういう人間に敬意はらうなどできるのか?全くできない、ただ愛情をもって接してなだめるとかできる。つくづく人間は理性と道理を失ったらどうなるのか?それは人間でなくなる。人間の一番は発達したのが前頭前野でありこれは「額が秀でる」という表現のように額の部分が人間の一番重要な部分でありここが動物より発達したのが人間なのである。小脳とか扁桃でも本能的な部分をつかさどるのは動物でも脳として働く、しかし前頭前野の部分は人間を人間たらしめている最も重要な部分なのである。それは感情をおさえる、嫌なことや、苦しいことや、相手にたいして怒りや憎悪やいろいろな反感をもっても抑えることなのだ。ところが認知症になると感情をおさえることができないから極端になると暴力になるのだ。そして一旦暴力をふるうと回りのものは怖いとなる。これはなにも精神病者とか認知症とかの人だけではない、暴力団でもなんでも理由はなんであれ暴力をふるう人間はその時点で危険人物とされてもしょうがないのだ。なんであれ暴力をふるったら負けなのだ。これは戦争でもそうである。実際は暴力をふるった暴力をしかけた側が本当は危険だとなる。日本は戦争を中国にしかけたから暴力で侵略したからいつまでたっても日本は危険な国だとなる。これは何も日本だけではない、中国でも、アメリカでもそうである。力があっても暴力をふるった時点で相手は危険な人物としてマ−クされ警戒されまともに話し合いないとなるのだ。一般社会ではそうだが人間の歴史では戦争となるとそうはならない、戦争の暴力は肯定されがちなのである。
いづれにしろ認知症の人に敬意などはらうことができないのだ。ものの道理がわからなくなった人間だからだ。理性で道理で説いてもわからないのだ。極端なのは妄想を信じていてそれを合理的に説明しても通じない場合がある。こういう人間が社会の中で社会人として存在させること自体問題なることがある。家庭でもそうである。なにか問題があったとき道理が通じない、だから喧嘩をしに行くとかやたら回りを騒がせて警察沙汰になったりする。別にそうした回りに迷惑をかけいないならそれなりに社会でも適応できて問題ないかもしれないが敬意をはらう存在などではない。目を離さず見守るとかし社会の規範を逸脱しないように監視するとかの存在なのである。そのために精神病院が収容所としてある。ただ認知症の場合はそばで見守る人が必要ではあるが軽度だったらほとんど社会的に問題を起こすこともなく暮らしていける。