2012年03月20日

福寿草(春彼岸)


福寿草(春彼岸)

世話になる人同じ墓所春彼岸


北風のまたうなりふき蔦からむ


石二つ動かず幸い福寿草


福寿草つつみ隠さず光受け咲き開き外に雲雀なくかも


蝋梅の長くも咲きぬ水玉の一時光り消えにけるかな

春彼岸はあまり遠方からは来ない、お盆には遠方からくる。墓というとき警戒区域では墓参りすらできない、墓すら流された人もいる。家もなく墓すら津浪でなくなった。死んでから意外と家より残るのは墓である。墓は最後の場所として残る。家はこの辺でも津浪でなくてもなくなっている。
人は死んでもそれで終わりとならない、その後の処理がある。それで迷惑をかけるから困るのだ。
だから親戚関係は嫌でも縁だけ切るなと言われる。なぜなら墓の問題やら事務的な処理でも縁をきると連絡もできないからそうなる。現実に自分の実家の一つは縁が切れた。でも墓参りはしているがもう顔合わせることも連絡もとることもできなくなった。向こうから縁切りしてきたからだ。だから嫌でも簡単に縁だけは切るなとなる。


近くの同じ墓所には世話になった人の墓があり墓参りした。そしたら墓銘碑にその人の夫の名前は刻まれていたが死んだ世話になった夫人の名前は刻まれていない、そこは相当に貧乏だから名前を刻まなかった。でも息子は近くにいても親不孝だと思った。金がないことはわかるがそのくらいなんとかしてやるというのが息子だろう。名前刻むだけで3万かかったとかあり倍もかかることがある。
線香があがっていたし花も供えられていたから供養されてはいる。でも墓銘碑に名前が刻まれていないのは肝心なものが欠けている。死者も浮かばれないということがあるだろう。その家は生きているときから母と息子の夫婦の関係は良くなかったから死んでもそうなっているということもある。

ともかく人間の因縁は一代だけでは終わらない、必ず二代目までその因縁はつづくのである。嫌だと言っても因縁は簡単に切れないのである。墓参りとかでもつづくのである。特に田舎ではそうである。
いづれにしろこの辺では今までいたところに留まることができたのは幸いだった。知人の人が山形に小学生の息子を連れてゆくと言っていたが急遽会津に移ることが決まったという、この辺は親子が祖父母とかがばらばらになる。一緒に住めなくなっている。放射能問題でそうなったのである。
自分は一人残されていろいろ家のことをやらせられるから大変である。


福寿草がまばゆく光を受けて咲き開いた。自然は包み隠さものがない、人間は罪を必ず犯すからつつみかくす、しかしいかに罪を包み隠しても必ず暴かれる、秘密のままにはならない、例え警察につかまらなくてもそうである。警察がつかまえるのはほんの一部であり大部分の犯罪はつかまらない、人間は罪を犯さない人は一人もいない、罪のない人は一人もいない、これだけはまちがいない、なぜなら悪意をもっただけでそれも罪だとすると具体的な罪を犯さなくても誰も悪意をもたない人はいないから罪人なのである。それにしても東電とか政府の罪も原発事故でこれほど暴かれたことはない、裁判関係者も罪を犯していて裁かれる方だったのである。原発訴訟では常に原発推進者側についていたのである。そして東芝や東電でも天下りしていたのである。それが津浪で暴かれたのである。

 
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