2006年04月08日

春の月(「門閉じても家にいても災いは天から降ってくる」)

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アパ−トに住む人若し春の月

今回の災いはそうだった。前にも二度目の水害のときも水があがり米を運ぼうとして母がコタツの穴に入り骨折した。これはなかなか直らなかった。コタツのようなものが災いの元になったし家の中にいても突然災いはまさに天から降ってくる。外が危険だというが家の中で安全を図ろうとしてもできないのがこの世の定めなのだ。宗教では愛とか慈悲とかが盛んに言われる。無理してでも愛を困った人に援助せねばならないというのもわかるがこれはかえってその人のエゴがでてきて政治的になったり党派の活動としてまたは会員を増やすためのものとなっているのが多い。善に対して積極的なことは偽善的になりやすいのだ。ところが善に対して受け身でも災いとか困った人は家の中に閉じこもっていても天から外からやってくる。今回の我が家の災いもそうだった。これは認知症という未だに訳のわからない災いに四苦八苦したのである。

認知症というのは本当に何が原因でなるのか?そもそもそれさえよくわかっていないのだ。どうしてもその人の生い立ちとか性格からなるといっても10項目のテストがあったが全部あてはまらないから性格からなるとはいえない、社交的で友達も多くあらゆることに積極的で快活な人がどうして認知症になるのか?そういうことを原因にすることは成り立たないのが自分の家の場合であった。むしろ10項目全部あてはまる無趣味な非社交的な人が90でもなっていないからだ。私の私見ではこれはストレスが大きく関係しているのではないか?なんらかのストレスが長年が継続したりしてそれが大きな負荷となって記憶する海馬が破壊される。老化も原因してここが破壊されやすいからだ。ベトナム戦争に行った人が海馬が破壊され記憶ができなくなるとかなった。そうした異常な体験を記憶したくないから海馬に異常が起きたのである。また感情をつかさどる扁桃と海馬が図のように一体不二であることは感情が怒りとか悲しみとか極端になると海馬にストレスが加わり記憶障害がでてくるのだ。だからなにか特に悲しいこと長年つれそった夫婦でも一方が亡くなったり家族の死などのショックで認知症になった人がかなりいるという報告があるからなるほどと思ったのである。

認知症問題の複雑さは原因もわからないしそのあとの症状も百人百様でありその対処方法も百人百様になるからむずかしいのだ。相手は長い人生を困難な人生を生き抜いてきたのだからこれに対処するのも容易ではないのだ。回想法にしてもこれに話を合わせるにはそれなりの体験をもっていないと合わせられない、若い人ではむずかしいとなる。治療自体が個別的になるからむずかしいのだ。個別的だけではない、地域別にもるな。老人はその土地、地域とともに生きてきたからである。その地域と切り離されることはそこで育った植物と同じであり別な土地では生育しないともなる。その土地に合わせて生育する種があるからだ。また老人は家とともに暮らした歳月が長いから家とも一体となっている。悪くいえば呪縛霊となって家にとりついているのが特に女性の老人になる。土地−家−家族−仕事−・・・これらが一体となって血肉となっているからこれらから切り離して施設に収容することは連続性、継続性が失われるから精神が不安定になり認知症になったりすすんだりするのだ。認知症には普通の体の病気とは違う様々な要因がありその対処方法も一様でないからむずかしいのである。

アパ−トは若い人が多い、田舎では90の老人がアパ−トに住んでいるのはめずらしいだろう。都会ではこれからこうした老人がふえてくるかもしれない、田舎の場合、近くに家族が住んで頻繁に行き来していれば一人暮らしではない、かえって自主性が保たれていい場合もある。問題は近くに家族がいない場合なのである。まあ、今や家が二つになってしまった不思議がある。これが何を意味しているのか?自分にも解せないのである。

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