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故郷に老いていつくや冬の草
仲間かな夕日に向かい冬の雁
枯葦の川面に写す夕べかな
異なれる色に装う鴨の群れ
我が庭の石に向かうや冬の月
故郷に老いて悲しく冬深む
白鳥の白き群れかな映えにつつ夕日のさして今日も暮れにき
北上川柳芽吹けど啄木の帰れざるかな悲しかりけり
川原に枯葦静か夕日映え水面に光反射するかな
一本の松は変わらずここにあり池の凍りて夕星(ゆうづつ)きらめく
故郷に苦しみ悲しみ喜びをともにしあれば離れがたしも
人間は明かに年とともにまた今回のような津波のような被害を受けたりすると見る眼が変わってくる。いつもの真野川であり普通何も感じない、でも今日見た光景は一段としみいる風景になっていた。特に枯葦に夕日の光が反射していたのは一幅の絵だった。写真も絵のように見れることがかなりある。写真は明かに絵に近いのである。この写真は別にこの風景がいいと思ってとっていなかった。ともかく習慣としてデジカメの場合、無造作に何枚もとることが必要なのだ。これもその一枚でありこんなふうにとれていたのかと写真を見て感心した。実物はこういうふうに見ていない、実物の風景は刻々変わるから記録できないときがあるのだ。偶然とれていたものをあとで感心して見ることがある。そして俳句や短歌にしている。若いときはいくら同じ川にいてもこういう風景に何か感じることがない、老いというのはまた感じやすくするのだ。自分の場合二〇代ですでに老成していたし体が弱いから長生きしないと思った。自分は若くして老成していたとなると六〇代になって本領が発揮されたとなる。いづれにしろ若いときはこうした風景にあまり感じないだろう。何かこの寂寥とした風景が身にしみる。この川も津波で樹が猫柳の樹が流されていた。津波の圧力は尋常じゃなかった。洪水では樹も流れないが津波は流してしまったのである。
人間はやはり生物の一つだからだんだんその土地にいつくというか樹や石のようになってゆく。それが自然なのである。だから原発事故で老人が移住するということは辛いことなのである。農家の人などはやはり村の人たちとの一体感がありそういう点でも都会とは違っている。人間の共同性が育まれるのはいろいろあるけど土地があり自然があり家族がいて仲間がいる時である。仲間というとき冬の雁が隊列組んで夕日に向かって飛んでゆくのを見た。あの雁はみんな仲間なんだなとつくづく思った。子供の時みんなで遊んだことがなつかしい。その時みんな仲間だった。だんだん仲間が競争相手となり敵とてってしまった。人間が連帯感もつのはただ享楽して遊ぶ仲間だけからは生じないだろう。夫婦でも互いに苦労して喜怒哀楽をともにして家族となる。故郷でもそういう仲間だったら共同する。ただ最近は金が力を持つときそういう共同も失われた。金持ちは共同する必要はないからだ。便利になるとまた共同がなくなる。いいことがあって悪いことがある。それが人間の社会である。
自然にひかれるのはなんと無邪気なんだろうかいうことにある。人間にはそうした無邪気さが失われている。欲の皮がつっぱりなんという変わりようなのか、同級生でもそうだろう。人間はこんなに変わってしまうのかという驚きと失望である。
ともかく故郷に住めたから幸せだということもある。啄木は東京で故郷に帰れず死んだ。柳が北上川に芽吹くのを眼に浮かべて望郷して死んだ。一方で原発事故で確かに東京の方に移り住んだ人もいるから啄木とは違っていても故郷を離れ暮らしている人たちがいる。会津の方の仮設住宅に住んでいる人もいる。そういう人たちが今故郷をどう思っているのか?小高から南相馬市内に移るくらいだとそんなに感じない。しかし遠くなるとやはり故郷を思うことがあるだろう。