2012年01月25日

福島県の奥の細道 (芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

 

福島県の奥の細道

(芭蕉は城をさけていた-忍者説の由来)

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みちのくへ木蔭の深き
境の明神守りけり
暗き細道たどりつつ
白河の関に卯の花かざし
郡山を過ぎ須賀川へ
花かつみといかなる花や
幻の花を探しつつ
その花の見いだされじや
幽邃なる花にしあれや
隠されし花にしあれや
須賀川に世の人の見つけぬ花
栗の花やゆかしき庵の主
初に聞く奥の田植唄
信夫もちずりの謂われ
一すじ奥の細道つづきけり
曾良と二人の旅人の影
さらに奥へと移りゆくかな
芭蕉の知らじや三春城下
その奥の葛尾村に元禄の碑
時を同じくしても埋もれけり
山深く人の生業のありぬ
安達太良山に粟蒔入道の雪形
民の暮らしのあわれかな


●芭蕉は城を避けていた、忍者説の由来

芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。


芭蕉のみちのくへの旅は 62万5000石 外様大名
伊達家 仙台藩の動向を探るのが 幕府から与えられた任務であった。 仙台
伊達家は 外様大名であった。


芭蕉のみちのくの旅は 芭蕉十哲の一人 河合曾良( かわいそら)が同行した。
河合曾良( かわいそら)は 情報収集の専門家であった。
http://www.geocities.jp/general_sasaki/bashoh_ninja_ni.html


芭蕉の俳句でも謎が深い、芭蕉のような俳句はその時代が生んだものだとするとき絶対今の時代では作れないから価値が衰えないのである。だから芭蕉の存在や俳句そのものが神秘的なものとなっているのだ。蕪村は現代にも通じる俳句を作っているしわかりやすい。だからこそ子規は写生俳句として蕪村を手本にしたのである。芭蕉はある意味で誰も手本にできない特別の存在である。信長が誰もまねできない天才だったというときそれとにている。誰もまねできないのが芭蕉の芸術だったのである。だからその俳句の価値は衰えないのである。


ここで前から不思議だと思っていたのはなぜ芭蕉には城を俳句にしたものがないのかということである。今だったら常に江戸時代のことなら城に注目する。城が中心になるとして過去を振り返るしその当時も城が中心的存在としてあった。だからこそ「絶頂の城たのもしき若葉かな」ができたし蕪村は現代にも通じている。ところが奥の細道でも白河の小峰城でも二本松の城があったのに注目していないし一言も書いていない。そもそも城の俳句がない、あたかも城を避けて旅した感じなのだ。そこから芭蕉忍者説密偵説が生まれた。現実に仙台だったら伊達政宗の青葉城を意識するはずだが城のことは何も書いていないし松島にも実際は寄っていないという、松島には瑞巌寺がありここは政宗の一つの城の役割を果たしていた。何か伊達政宗を城を避けている感じで符号するのである。報告するために書かなかった、詳しい情報は伝えていたととれるのである。


元禄時代というとき何か華やかな感覚になるのだが芭蕉はそうした華やかなものとは縁がない、江戸時代でもそれなりに栄えて華やかな所はあった。だが芭蕉は隅田川の辺に住んで江戸の華やかさとは縁がない、わび住まいだった。むしろそうした華美なものを嫌ったのかもしれない、ある意味で僧のような禁欲生活をしていたのである。蕪村は花街に出入りするような粋な風流人であるが芭蕉にはそういうことはまるでない、修行者なのである。忍者だったというとき何か忍者とか密偵とかそういうのがあっているからそういう説が出てきた。人目を偲ぶ生活である。旅でも須賀川は実は郡山よりも明治20年までは栄えていたとか商人の街であり栗の花が咲く隠者を訪ねるような所でもない、そもそも隠者でありえるにはのんびり隠居するには商人のように金に余裕がないとできないのである。貧乏人の農民は日夜あくせく働いているのが江戸時代である。須賀川にそうした隠者のような人がいたことは須賀川は商人の街として栄えていたからでありみちのくの貧しい農村地帯ではそういうことはできなかったのである。風流に生きることができるのは贅沢だからという逆説もあったのだ。

いづれにしろなぜまた花かつみのような幻の花を求めるようなことをしていたのか?おそらく江戸より寒い地域には見れない花が咲いていたということがあった。みちのくはまだ未知の世界だった。
北海道には高山に咲いているハクサンチドリが平地に咲いている。檜扇菖蒲も咲いている。宗谷岬への旅ではそのハクサンイチドリが雨にぬれて咲いていた。そういう北へのまだ見ぬ地域での発見があると思っていたのかもしれない、芭蕉が求めたのは本当にわび、さびの世界である。一方蕪村は華やかな美の世界があった。元禄時代というとき奥の細道からはずれているけど三春藩の境に近い葛尾(かつろう)村の落合に元禄の碑があった。明暦と元禄と記された碑は謎である。元禄というとき何か華やかな時代を連想する。あんな山の中にも元禄の碑があったということでめずらしかったのである。


まず今は奥の細道の面影が残っているところは極めて少ない、ただ境の明神のある所は杉木立で道も細く奥の細道に入る面影を残している。あとは白河市から須賀川とかは新幹線の世界であり新幹線が山をロケットのように突き抜けて行く世界では旅情など全く感じないのである。あの辺は歩いても旅情を感じない、車の量も多いし疲れるだけである。

 
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