2012年01月09日

伊藤契沖の群雀と粟の絵を見て


伊藤契沖の群雀と粟の絵を見て

awasuzune11.jpg


粟による群雀喜々と江戸時代


柳津に粟饅頭をもらうかな


新年の満月に願う復興を


米3分・大根干葉・粟 米3分・大根干葉・粟
盛切一椀づつ 雑炊・くだけ粥・麦粥

江戸時代の農民は稗・粟・麦等の雑穀中心の雑炊を食し、米は3-4割しか入らないものでした。現代の蕎麦・うどんは江戸時代は特別なご馳走であったことがわかります。
http://homepage2.nifty.com/history-nanokaichiba/edosyoku1.html


粟餅
http://www.kabuki-za.com/syoku/2/no163.html


 阿波は粟のことか?石川県輪島市町野町粟蔵の粟蔵は文字通り粟を貯えていた蔵になる。粟に関することは多い。江戸時代は常食として粟を食べていたのだから当然そうなる。米は三分くらいで粟とか稗とか麦を混ぜて食べていた。今のように白米ばかり食べていることはない。白米ばかり食べていたのは江戸でありそれで栄養が偏って江戸患いの脚気になった。江戸では米は入ってくるが雑穀は入ってこない、戦後の10年くらいは麦飯だった。それはこれまでの雑穀文化の名残だった。戦後10年くらいは麦畑がどこにもあった。養蚕もしていて桑畑もあった。自分の家の後ろがそうだったが住宅地になりその面影は何もなくなった。なぜこの粟に今興味もったかというと伊藤契沖の絵に粟が描かれ多くの雀がその粟を食べに来ている絵を見たからである。稲穂による雀は稲雀となっているから知っているが粟を食べる雀は見たことがない。


粟稗にまづしくもなし草の庵 芭蕉


白石市益岡公園
  粟まくや わすれすの山 西にして  松窓乙二


関山、烏峠と共に白河三山と称される新地山は白河市街から7キロほど東方にある阿武隈河畔の
小山で、対岸には古代の白河郡政庁である白河官衙跡(国史跡)もある。古くから人忘れずの山の
別称があり歌枕ともなっていたが、おそらくこの穏やかな山容は、畿内から下向した官人らに懐かしい大和の山々を連想させたに違いない


キ-ワ-ドで粟で探ししていたらこんな句に出会った。人忘れずの山ということでわすれすの山となった。不忘山というのはあるけどこれは高い山である。白河官衙跡にあるということは古いことは確かである。別に粟稗を食べていたからといってその当時貧しいとは感じていなかった。今の時代の食生活からすると貧しいとなるが江戸時代の感覚では貧しいのではない、普通の生活だったのである。
粟というとき柳津で粟餅をもらった。それが結構うまかった。粟餅も普通にあったものである。粟は欠かせないから粟蔵があり地名にもなっている。日本人は米ばかりを食べていた米ばかりを作っていたように思っているが実際は米は三分とか少ないのである。そこがまた昔を誤解することになる。

会津の方だと余計に山国だから蕎麦も食べていたし米を食べる量は少なかった。柳津という会津の奥にふさわしいともなる。ただ粟はどこでも作られていたのだ。やっぱり旅をしても郷土に住んでいてもこういう故事が知らないと旅もつまらなくなる。福島県なども会津をふくめると広いからわからないことが多いのである。


今日は満月が海から昇った。月見は焼き畑時代から由来するもので芋とか雑穀を月に供える行事だった。満月は何か縁起がいいというか新年にふさわしい。今年はいい年であってほしい、復興を満月に願う。月とか太陽も地球にかなり影響している。それは歴史も動かしているかもしれない、そういうことはなかなかわかりにくい、今回の津波などもどういう影響でなったのか本当に不思議である。



柳津(やないず)でもらったのは粟餅ではなくいかにも粟らしい粟饅頭でした。粟餅はまだ食べたことがありません、
粟餅も江戸時代は普通に食べていたものです 
 
 
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/53027080
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック