世界史を地理風土から解明する
世界の地理から首都の位置から世界史を読む(1)
歴史は地理であるというとき世界史でもそうであるから世界の地理がある程度わからないと世界史はわかりえようがない。地理は本だけ読んでも地図を見てもわからない、立体的地図を見てもわかりにくい。地理は地形と関係しているからある程度体で体感しなとわかりにくい、そうなると地球は馬鹿でかいからとても一生をかけてもゆく所が限られているからわからないとなる。自分の場合も50すぎてから世界旅行したから遅かった。今の人は若い時から海外旅行しているから学者でなくても海外に詳しくなれる。世界史が地理だというとき地球を作ったのは神であり神があらかじめ人間に予定していた用意していたのが地理である。カナンの地、イスラエルが地球の中心だというときそこはあらかじめ神が定めたからである。アブラハムがカナンの地にあえて移住したのもそのためだろう。神が定めた地球の中心がイスラエルだったのである。地球の首都がイスラエルだった。首都というときまず世界史で大事なの世界でそれぞれの国で首都となっている地理である。日本だったらヤマトが奈良になったのは歴史的必然だった。日本の地理的中心が奈良でありそう定められていたのである。邪馬台国論争があっても地理的に日本の地理的中心は奈良だった。なぜならそれも地形が関係していた。
大阪が難波が適地のように見えたが日本は葦原の瑞穂の国というように海に囲まれ湿地帯が多かったのである。今の港となっている所はほとんど湿地帯であった。難波も広大な湿地帯でありそこに都をつくりえよがなかった。それで最初の都が首都が奈良の奥まった飛鳥になったのである。そこもまた奈良の平地が湿地帯であり湖だったとかあり飛鳥が都になった。その後万葉集で歌われた山辺の道も平地が湿地帯だから山辺の道に沿って巨大な古墳が作られた。卑弥呼が眠っている箸塚古墳といわれるのも山辺の道沿いにある。その後も首都は難波には作られなかった。山城の山に囲まれた京都が平安京の首都になった。その後は近江の大津京が首都に一時なったり難波はなかなかなれなかった。
難波が大阪は秀吉の時代まで待たねばならなかった。次に首都になったのが江戸-東京なのも海に面していた東京湾でありここも湿地帯であり埋め立てが必要だった。
首都の位置から地理から世界史をみるとある程度理解しやすくなる。中国も馬鹿でかいから地理を知るのは用意ではない、ただ最初首都が始皇帝の秦の首都が長安であり西安となった。秦がシナとしてシルクロ-ドを通じてヨ-ロッパに知られたことでもわかる。そこは遊牧民族の騎馬民族の土地と接するところであり兵馬俑の大騎馬軍団を擁して中国の最初の統一国家を作ったのである。去年は津波の被害で「絆」が強調されたが感じの意味は動物との牛とか馬とか羊の絆が語源だという。これは遊牧民的言葉だった。遊牧民は動物との絆なしではありえない、農耕民は土地の絆なしではありえない、日本語のきづなは木綱になってしまう。日本は樹の文化だったのだろう。樹に綱を張るから新年の神社の行事でもあるし家庭でもしめ飾りかしているからである。その後も遊牧民のモンゴルと接する北京が首都になったのも遊牧民の影響が中国は強く受けているからである。遊牧民の侵入を防ぐために万里長城を作ったのである。この遊牧民は広大なユ-ラシア大陸の国家の揺籃の地となった。ただ農耕民のエジプトのような三千年とか継続する文明国家を作り得ず雲霧消散した。トルコまで遊牧民国家であり西と北の境目がイスタンブ-ルになっている。イスラエルとかも遊牧民の国だった。砂漠からユダヤ人の聖書が生まれたのである。この遊牧民がフェニキア人のように地中海の海洋民となってギリシャがそのあとを受け継いだ。そういう大きな歴史の流れが地理的にあった。その国の首都がなぜそこにあるのかまず検討する必要がある。ギリシャの首都がアテネでありロ-マの首都がロ-マだというのもその位置が大事になる。フランスでも国家がマルセイユを歌っていたというときやはりマルセイユが中心としてあり次にパリに移っていった。マルセイユはギリシャの植民都市として発展した。フランスには広大な平野が背後にありそこが耕作地帯となるからパリに首都が移った。
遊牧民の影響はヨ-ロッパにも継続された。ロシアがタタ-ルの軛としてモンゴル帝国の一国家として出発したのもそのためである。その後もフン族とかいろいろな民族が西のヨ-ロッパに移動したのである。ハンガリ-などもそうした遊牧民の国家だった。東ヨ-ロッパ地帯は遊牧民国家であった。ただドイツはゲルマンは森の民と言われるように狩猟民であり遊牧民であり農耕民にもなっていた。ゲルマンは遊牧民とは違った文化をもっていた。遊牧民は森の民とはなり得ないだろう。今でも森は草原などにわずかにしかないだろう。でもモンゴル平原にも森がありその森の民が狩猟の民は今でもシベリア辺りでは移動するから定住の農耕民とは文化が違っている。森の民というときなかなか理解しにくい、ドイツでも森がなくなったときそれかイメ-ジしにくくなった。でもその伝統が文化に受け継がれている。ゴシック聖堂が森を象ったものだというときそういうものかと理解する。その背景にあったのがゲルマンの樅の樹などの黒い森であり樅の樹はドイツの象徴的な樹となっている。森の民故にその思索も深くなり音楽もベ-トベンとか重厚なものが生まれ重々しい思索の哲学の国となった。Fundamental Germany Identityが森にあったからである。
のちのプロテスタントシズムが生まれたのも勤勉の奉仕を基にした資本主義のエトスが形成されたのもそのためである。峻厳な森と北方の厳しい風土がそのモラルを自ずとキリスト教と合体して形成された。
一つの国の歴史と民族性はまず自然の植えにちゃんと書いてある。よその国や人間を知りたければ、その国の自然というものをまずゆっくりと読むことだ。一ペ-ジだけで結論に達したりしないであせらず急がず読むことだ、春夏秋冬という書物をゆっくり読むべきだ。(西欧の顔を求めて-犬養道子)
この本は含蓄がある。ほとんど外国に住んでいたら当然そうなる。ところが普通の人は一回くらいしかヨ-ロッパでもなかなか行けない、ただ最近若い人でも8回パリに行ったとかいう人も増えている。外国というのは本で読んでもわからない、地図を見てもわからない、一回でもその土地を踏んだ人は実感としてわかるのだ。ドイツの大地を踏んだ時、ドイツの文化の根源的なものを実感として体から感じる。ドイツ人のゲルマンの魂がその土地から形成されたからである。するとベ-トベンの音楽とかが肌でその土地と一体となって感じることができる。印象画がフランスから生まれたのも霧深い森深いドイツではない明るい陽光のフランスだから生まれた芸術だった。これもその土地の風土を知らなければ深く理解し得ない。日本の俳句は日本の四季を知らなければ理解しようがないのだ。一年間日本の気候四季を経験しなければ理解しえないものである。だから一度も外国の地を踏まない人と踏んだ人の差が外国の場合は大きいのである。駆け足で一回だけでも行ってもその影響は大きいのである。一回だけでも相当理解が深まる。これまでは一回すら行けないのが普通だった。今は庶民レベルで行っているから外国に対する理解は深まってくる。ただ外国に住んでいる人のようにはいかない、そこに以前として大きな差がある。何回もゆく訳に行かない無理だとなる。
この地理的世界史論は継続されて書かれる、次は川を知らなければ外国は知ることはできないとなるだろう。