2012年01月03日

禁欲生活から始まった資本主義にもどる必要がある (宗教は人間の欲望を抑制するために生まれたことを再考せよ)


禁欲生活から始まった資本主義にもどる必要がある

(宗教は人間の欲望を抑制するために生まれたことを再考せよ)

●働くこと自体、欲念や欲望を避けるためだった


宗教はそもそも禁欲からはじまっている。道徳というものはすべて何らかの欲の抑制と禁欲を教えている。資本主義すらもともと修道院の禁欲主義からはじまった。神に奉仕して民衆に奉仕することが動機となっていた。そのためにこそ働き利益をあげることが神から許されたのである。修道士は利益をあげてもそれでもって享楽したり贅沢などしない、家庭ももっていないとしたら日々食べるだけで満足しているのが修道士である。そうしていれば自ずから利益が上がり利益は蓄積され資本も蓄積される。ではその利益が蓄積されその資本をどう使うかが問題となる。消費をしない倹約、禁欲を守るのだから修道士は消費しない、でも生産が増加すればもの余りになるだけである。資本主義は勤勉の宗教、哲学なのだからいつかはそうして日々働いていたら誰かが豊になり裕福になることに運命づけられている。一方で富は富裕になることは修道院では禁止されている。そういう矛盾が資本主義にはあった。


日本人が勤勉だというとき本当に明治から大正生まれの人は良く働く、そして消費をすることを悪いものとしている。それが極端になると働くことだけを価値となしあとの一切の消費を悪いものとして否定する。食べるものは贅沢したりして認めている。しかし庭とか作ったりしたら全く価値を認めない、他のものにも認めない。趣味的なものも認めない、花を買って挿したりすることは多少認めていても庭に花を植えたりして鑑賞することも認めない、一切遊びもしない、趣味で遊ぶことも体験もしていない。そういう環境にもあり労働が子供の頃から強いられた世代である。すべてがもったいなという世代である。だから食べ物で今贅沢しても食べ物で何か文句を言ったりすることもないのである。どんなものでもありがたい、食べられればいいという世代である。そういうことは感心する。しかし自分の家族のことは極端だから一般化はしにくい。しかし何のために働いたのかというと奇妙なことは働くために働いたということになる。たいがい今は消費するために働いている。食べるほかに家が欲しい、いい車が欲しい、大きいテレビが欲しい、海外旅行がしたいとかそういう消費がグロ-バルに広がったからそういう消費で満足するために働く。そういう欲望が限りなく広がって来たのがグロ-バル化経済の欲望資本主義である。


なぜこれほど労働に重きをキリスト教のプロテスタンシズム、修道院では置いたのだろうか?それはおそらく働くないと気が散りかえって様々な欲望や享楽の誘惑に負けるからだったともいえる。働くことに夢中になっていれば別に消費しないでも誘惑からまねがれるからいいとなる。そうでないと怠惰な時間があるとそこに欲望や誘惑が入りこんでくる。それを修道士は恐れたのである。それは別に厳格なキリスト教でなくても仏教でも禁欲であり禁欲こそが宗教であり哲学であり道徳なのだ。ただ仏教では働かない、洞窟で座禅を組み禁欲にはげむ、僧院にこもり修行するのも禁欲である。インドなど暑いから木蔭でじっとすることが暑さに耐えることも関係していた。蓮の花のあうのはインドである。その蓮の花がエジプトでもロ-タスとし象徴的な花となっている。蓮の花はもともと暑い国の花である。

プロテスタントシズムが起こったのはドイツとか北欧とかでありそこは寒い国だった。寒い国は勤勉になる。暑い国はどうしても怠惰になる。だから座禅を組んで働かないで禁欲を実行したが座禅しても気が散り欲望は目覚める。かえって強く目覚める。一方働くことは気が散らない欲望を忘れられる効果があった。それで修道士は働くことに勤しんだのである。働くために働くということとある程度共通していたのである。自分の家族の場合は異常だったけど修道士はそうではなかった。神に奉仕しているとして働いていたのである。時計というものが修道院内で発明され時の鐘を鳴らすのは修道院でありそこで時間の感覚が養われたのである。


●キリスト教では座禅する代わりに働いて禁欲した


宗教というのはどうしても禁欲が不可欠なのである。例えば女性と交わらないというとき女性はあらゆる面で欲を増長するものとしてあることがいなめないのだ。その衣裳で飾り様々なもので誘惑する。それは女性が悪いというのではなく極自然な行為としてしている。それでその女性の贅沢のために男性が働くということも普通にある。するとそうした労働は贅沢のためであり宗教的にはしてはならないものである。だけど働くということに重点が置くとその意図とは違ってそうした贅沢なことに消費されるのである。そこにまた矛盾があった。それでソロ-が働くことを拒否したのは金持ちのために金持ちの浪費のために働いているとかを見て働くことをその場合は無意味としたのである。確かに現代の労働となるとすべてが本当に必要なものなのだろうか、これほどの労働が必要なのかという疑問がでてくる。貧しいときは労働は必要だった。おそらく機械化も関係している。コンバイン一台で千人分の麦刈りをしてしまう時代である。人間の労働はある程度機械が肩代わりするようになった。すると人間は機械と比べるとこれだけの差があるのだから人間の労働が無力になったから働くことが必要なくなったという一面はある。ただ労働の分野は無限に増えている。介護とか新しい分野ではいくらでも必要になっているのだ。家事などは機械化して消費化しやすくなっているから金でまかなうことができる。自分でもほとんど買ってまかなっている。風呂も自動だし洗濯も自動だから一人で何とかやっていけるのだ。ごはん炊くこともしていない、インスタントの米をレンジであたためて食べることができる。これが昔のように電気釜もない時代だったら家事だけで一日が終わっている。洗濯にしても骨の折れるものであった。昔の労働は大きな部分が家事に費やされていたことは確かである。女性の主な労働は家事だったのである。


人間は強いられて働いてきた。日常の糧を得るために追われ働いてきたのが普通である。でも豊になると働く必要もないのに働いているように見えるようになった。明治維新後は欧米に追いつくために富国強兵とかがむしゃらに働かされたのだ。豊になることを追求してきたのだ。戦後の焼け野原になってからも物質不足でありその物を充たすために団塊の世代はがむしゃらに働いたのである。それが今働かない人が人口の三分の一くらいもあるような時代になった。高齢化の人も年金暮らしで働かない、ニ-トや若い人でも働かない人口が多い。これほど働かない人がいた時代はないだろう。ただ働かない人達が働きたくないということではない、自分の生き甲斐となるものがあれば働く、ぶらぶらして何もしないということも楽でないからだ。そしてそういう暇な所に欲望や享楽の誘惑がはいりこみやすい、また小人閑居して不善を成すとなやすいのである。働くことは修道士のようにそういう欲望を抑制して逃れるためにもあったのだ。特にに若いときは欲望の力が爆発的になるから余計にそうである。そこで禁欲を実行することは至難である。


ところが懸命に労働しているとある程度逃れられるとういことがある。座禅などしていてもかえって欲望が増大するからむずかしい。ともかく人間の生活には明かに禁欲が必要だからこそ昔から宗教や哲学や道徳が生まれたのである。欲望のままに生きる人間は野獣と同じになってしまうからである。結局人間の悪は性であれ何であれ抑えられない欲望のために起こるからだ。だからあくなく消費を刺激する現代の資本主義は全くプロテスタントシズムからはじまった禁欲の資本主義と正反対のものである。消費がすべて悪いものではない、消費も生産につながっているものもある。旅をしたことは知らない世界を見聞することであり本を買うことも知識を得ることであり消費は生産につながるものでもある。だからいちがいに消費は無駄とはならない。ただ絶えざる性を刺激するようなファッション産業などや様々な消費が奨励されるのかとなるとそうは思えないものが増えてきたのである。車だって本当にこんなに必要なのかと疑う、そんなことを言う人は今は異端であり誰も相手にしない。もし車が過剰で無駄だとなるとき車を生産していることにで働くことも無駄だとなるのだ。働くことが疑問になったのはあまりにも物がふえすぎた結果だろう。そしてさらに足りない足りないと欲望を刺激するものが過剰に作られているからだ。


●現代は昔の禁欲生活が必至になった


江戸時代から戦前は貧乏だから別に宗教のように禁欲を強制しなくても強制させられていたのである。禁欲が大きな価値となっていた。宗教的には享楽的消費より禁欲が推奨される。それで魂は汚れから逃れられる。そして実際に禁欲というのは現代文明には不可欠となっているのだ。原発事故がなぜ起きたのか?その原因はいろいろあるにしても人間の欲にあったことはまちがいない。原発は人間の欲望に答えるものだからこそ危険なものでも作られてきた。原発は人間の欲と深くからんでいる。だからこそ廃止することもむずかしいのである。すべての人の欲を抑制させることはむずかしいからだ。地元にしても原発からの恩恵があるから積極的に誘致したという経緯もある。だから原発も宗教ともからんでくる。双葉町辺りで何キロしか原発から離れていない所では家族がばらばらになりその主人が家族が一緒に暮らせるならロウソクでもいいと言っていた。まさにそうした極端な禁欲的なことを言うようになったのはその被害が大きすぎたからである。こんなに害を及ぼすものだとは思っていなかったのである。


原発を拒否するには生活そのものでは昔のように禁欲的にならざるをえない、俗社会では耐えられないということになればまた原発事故が起きて住めなくなる。以前として欲望を拡大化する欲望資本主義が継続されたらまた原発事故が起きる。社会全体に禁欲が要求されているのだ。もちろんロウソクにしろとか車をもつなとかは言えない、しかし禁欲はある意味で強制的にすら必要な時代になっている。そして禁欲がすべて悪いとはならない、禁欲はかえって満足をもたらす、幸せをもたらすことにもなる。江戸時代の人々が幸せそうに見えたというのは今より欲望が抑えられて禁欲的だったからである。人間の欲望は限りないし決して満足をもたらさない、結局人間は何ら本質的には変わってない、欲望から脱しない限りこの世に平和はこないし人間は欲で滅びるということは変わっていない、原発だって人間の限りない欲望が作り出したものである。原発は科学の問題であり科学がやがて解決するというがそうはならない、今回の津波はこれ以上原発をもつなという天からの神からの警告だった。これを無視してさらる原発をつづけるなら日本は滅亡する。地震国であり津波国であり危険すぎるのである。アメリカの科学者が日本では狭いから原発事故になると逃れる場所がないと言っていた。二三ケ所事故になったら日本は滅亡して外国に逃れるほかなくなる。


いづれにしろ人間は常に少数者であれ禁欲を実行する人達を必要としていた。それが今のように全く世俗化した社会になったとき欲望のみが放置され拡大化してゆくときそこから原発事故でもあらゆる害が抑えようなく起きてくる。カルト宗教にしてもそこもぎらぎらした人間の欲望を増長するだけの団体である。宗教はあらゆるところで厳格な禁欲を実行する場ではなくなった。神社にしてもそうでないか、賽銭にはこの世の欲がこびりついている。何を祈るかと言ったら何かのこの世の欲望を実現したいが為にお参りしているだけではないか?だから現在は神聖な場はすべて欲で汚ごされている。寺もまた戒名商売とか観光商売とか世俗の欲と離れた世界ではない、宗教は本来世俗の欲と離れることを志向した。世俗の欲を絶つことが出世であり信仰の場だったのである。そんなところ今はどこにもない、宗教的な場所に行けばそこは常にそうである。なぜ山の上まで行ったらそこに神社があって賽銭のようなものが要求されるのかわからない、どこでも賽銭が要求されるのが宗教的な場所になっているのだ。それは商人にかけた関税なのかとも思う。だから今は自然そのものにじかに接することが身を清めることであり宗教的な場に行くべきではない、そこには常に人間的な欲がまとわりついているのである。昔のように禁欲的な修行をしているということもないのだ。ただ賽銭をもらいたいという人が形だけ僧侶になったり神主になったりしているように見えるのだ。宗教はそもそも禁欲を実行する場でありその原点に帰るべきなのである。

posted by 老鶯 at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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