2012年01月01日

2012年賀状の俳句 (落日の輝きの方がまぶしい)


2012年賀状の俳句

(落日の輝きの方がまぶしい)

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落日の輝き眩し年明けぬ

落日の光芒深く年明けぬ


老梅のなお枝伸ばし香るかな


新年や二条城なる松の張り


隠棲の細道たどる冬の京


海に向かい若者走る年明けぬ


新年や人なき町を誰が祝う


元旦や地震に目覚め龍の年

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全体図 狩野山雪 老梅図襖



昼間寝ていたら地震だった。震度4だから結構強かったし範囲も広かった。今年も波乱の幕開けなのか、辰年だからまた波乱なののか、これ以上の波乱はもういやだ、平穏であってほしい。
元旦に見たのは朝日ではなく山に落ちゆく夕陽だった。ただその夕陽がまぶしかった。晩年になるとかえって実は内面的輝きは増してくる。自然と深く一体化してゆく、それでモノを見る眼ができてくる。鑑賞力が高まってくる。それは芸術一般に言える。ものの味方が深くなってくる。だから若いときより老人の方がある意味で充実している。若いときはものを見る眼がない、欲望だけがふくれあがっている。体力はあってもものを見る眼がないから精神的に充実しないのだ。旅をしてもやはりものを見る眼がないと何も見えない、特に歴史ある所はそうである。歴史は時間の中で作られたものだからやはり時間をかけないと見えないのである。歴史は徐々に時間をかけて見えてくるものがある。それは人生でもそうである。徐々に時間をかけて見ていればわかるものがある。歴史をたどることはそれだけ時間がかかるのである。落日の輝きの方がまぶしいとういことがある。それは内面から発せられる光である。心境の変化で見えるものがある。心境が変わると同じものでも同じではないのだ。

明かに今日の新年の落日は違っていた。それは内面が心境の変化でそうなっている。平凡なものでもその人の心境で見えるものが違ってくる。特にそれは老人になると心境が変わってくるので見えないものも見えてくるのだ。若いときは心境が乱れているから見えないのである。心境によって人は幸せにもなれば不幸にもなるということがわからない、貧乏でも心境が良ければ苦にしないということもある。あばら家で今日はいい月だとか風流を感じているとすれば心境によるのでありその人は幸せだとなる。それでないとほとんどの人が不満不平しかないのと同じになる。裕福でも心境が悪ければ不幸になってしまう。


人生を理解するにも時間をかかる。何を意味しているものなのか卑近なこと一番身近な所でもわからない、最近家について書いたが家って何なのだろうと考えたのもわかったのも最近のことである。家の家事から全部やってみると家はその家につながっている人達が二代くらいでもいる。家は死者とつながっている。家は一人ではない、それぞれ一つの最も基本的な共同体である。その共同体の中で死者も生き続ける。墓は外にあるからその村や町や市とつながっている。家は縦軸で時間につながり横軸でその空間、土地とつながっているのだ。だから人間は一番基本的なアイディンティティは家にあった。そんなこと当たり前じゃないかとなるがそういう当たり前のことが年をとらないとわからないのである。事実、故郷から離れたらその土地とも離れるからそうしたアイディンティティが失われるから根無し草のようになっている。そういうアイディンティティが断たれたら存在感もなくなる。そういうことを原発事故で自覚したのである。


京都辺りはいろいろ歴史がある。その一つをテ-マにしても探るにしても時間がかかる。狩野派の絵が雄渾になったのは家康の時代になってからだというのもわかる。権力者に絵が注文されるから権力者向きの武士の好みの絵になったという。芸術にもそういう時代背景がある。狩野山雪の老梅の絵は迫力がある。現実にあんな梅は存在しないだろう。それは絵師の心境から生まれた。人間の心を写したものだから迫力ある絵となった。それはゴッホの絵でもそうである。太陽でもそれぞれの心で見ると違って見えるのでありいつも同じ太陽ではないのだ。鑑賞力、認識力が高くなってくるとこの世は一面退屈しない、そうでないと人類の宝はいくらでもあっても鑑賞できずに終わる。それは自然でもそうである。自然は何の意味ももたらさない、そういう人がいくらでもいる。


ただ芸術家でなくても体で自然を感じている人達がいる。農民で職人でもそういうことはありうる。もの言わぬ語らぬ描かぬ芸術家もありうる。そういう人は表現しなくても自然を深く感じているのだ。だからそういう人達が自然と通じ合うのは自然の中で働いている時でありもし原発事故で避難している人のように働かなくなったら自然を感じない、ただパチンコとかその他遊ぶだけで価値無きものになってしまうだろう。自分が家事をして働いて家についてわかったように人は働かないと回りにあることが深く体で理解できない、もっとも身近な家を理解しなかったことでもわかる。家事というのは料理するとかだけではない、何か深く家全体にコミットすることだった。そういうことが働くことにある。働くことは何かと深くコミットすることなのだ。ただそういう意識をもてないのが現代の労働である。ただ時給をもらうだけにすぎないとなって労働の深い意味を理解できないのである。そういう意識がもてないのである。主婦だったら家事が単に料理するのではない家全体を支えているという自覚をもつ、ほかでは時給いくらだとしかならない、そういうのは人間の労働ではないことは確かである。


この辺だと海の方に心が向くのだけど今回の津波で海が恐怖の場所になってしまった。海の方に行きたくないとか海を見たくないとか海と密接にかかわった人でさえそういう恐怖を植えつけたのである。被害にあわなくても津波の被害のあとは余りにも荒寥としている。
そういう感覚はなかなかぬけない、原発事故だって人が住めなくなった町や村は荒寥としている。だから新年を祝う気にはなれないことは確かである。だから京都とか西の方のことで新年を祝うというの別に問題ない、なかなかこの辺はおめでとうとはならないからだ。

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