2012年01月01日

新年桜の短歌(大坂城の桜)-2012-元旦


新年桜の短歌(大坂城の桜)-2012-元旦


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大坂城夕陽に映えて門入れば静心なく花の散るかな


大坂城なほも花散りあましたる花に酔うかな夕陽落ちゆく

大坂城出入り尽きぬ花あまたなお散りにつつ日も暮れぬかも


大阪城難波の夢の蘇るその跡の大いなるかも花散りやまじ


大坂城栄いは遠くみちのくの雪に埋もれて春を待つかな


優艷に京都の桜しだれけり昔の人に我があわめやも


千年の都にしあれその栄今につづきて桜しだれぬ


みちのくゆ我がたずねしは遠き日や姫路城にそ満開の桜


淡路島見えて明石城大阪へ船の行くかな春の夕暮


瀬戸の海遣唐使の帰りきて明石の戸や平城宮の近しも


淡路島なぎさに花の散りにつつ夕陽の映えて城の小さし


岩国の城をたずね山の上に椿の咲きて我が下り来ぬ

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桜というときやはり京都、大阪、瀬戸内海沿岸とかが印象に残った。桜というとき日本人の花になったのは奈良時代ではない、桜が日本人の花になったのは西行が桜を歌った時からである。鎌倉時代になるのか、京都の平安京からも桜は歌われていたろう。奈良は桜の時代ではない、梅の時代であり


あをによし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなり(万葉集巻三328)

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな  伊勢大輔(61番)


奈良の桜は八重桜であり今の桜ではない、今の桜のように華やかには散らない、八重桜と吉野の桜ではまるで違っている。奈良時代は山桜の時代である。 


さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 


今の桜の感覚はやはり平安京辺りからはじまっている。左近の桜は、中国から考え方が入ってきた時は「左近の梅」だったそうです。右近の橘の方は、なんでとなりますよね。調べました。橘は日本書紀の中で不老長寿のクスリとして出てきます。
それがいつの頃からか「左近の桜」となったらしい。桜というのは武家が台頭してからかもしれません。ということは最近(室町時代ぐらい?)かな。

やっぱり桜はまだ平安京では今のような桜ではない、奈良時代からのつづきで梅だったのである。
桜は大坂城の桜が一番印象に残ったというとき大坂城は広いしその時丁度桜が散っていた。そして夕陽が落ちてゆくときだった。その桜がなんともいえぬものだった。桜というとき花でもそれは山桜ではない人間の歴史と呼応して人間化した桜である。大坂城で見る桜は人間の興亡を写していたし京都の桜は千年の都として栄えた所に咲く桜であり一際優艷になっているのだ。大坂城は短く炎上したけど大阪の栄は江戸時代もつづいたのである。信長の安土城は一代もつづかないはかないものだった。しかし大坂城は秀吉が死んでも終わらなかった。大阪商人の栄いはつづいたからその繁栄を写すものとして見ている。江戸は参勤交代の政治の場であり大阪は商人の都市となった。その棲み分けで栄えた。京都は天皇がいて文化都市として千年の都でありえた。それが現代では東京に集中しすぎたから大阪が衰退したとかとなる。ともかく京都-大阪-明石-姫路城-とかの桜は見物だった。そういきう栄はみちのくにはない。大坂城の桜はいくら散ってもまだ散ってゆく、やはり大坂城の桜は日本の栄の象徴だった。江戸城にはそういうものがないから残念である。西には大きな城があるから陸奥とは違ってその栄を偲ぶことができる。絶えず旅していたからそういう日がなつかしい。今や仙台に行くのがやっとである。日本に生まれて最後に見たいものは富士山だった。最後に富士山を仰ぎ死んでゆきたいというのがやはり日本人だった。
今年は津浪原発事故で新年おめでとうとはなりにくい、でも西は被害がないので新年おめでとうでもいいのかもしれない、今年は龍年だけど去年が龍年だった。これ以上荒れる年はごめんだとなるがそれでもまたどん底の年になるのだろうか、いづれにしろここ五年間災難の連続であり最悪の年として終わった。今年は平穏であってほしいとなるが放射能のことなどは簡単にはおさまらないし病気のこともあるし晩年になってからの災難は苦しい、そして津浪でも原発事故でも何ら解決していないのである。復興はこれからも時間がかかる。放射能を払拭したくてもできないのが辛いのである。


今年もまたいろいろ鑑賞することでは何か不思議に進展があった。見る眼ができた。すでに遅すぎたということがある。でも何かものを見る眼がさえてくる。本をいくら読んでも深く理解しなかった。それが理解できるからかえって本を読み返すことが楽しいのである。だからモノを書くことでは進歩があった。自分独自のものを書ける。この桜の短歌も前の短歌のつづきだった。旅はしなくても回想でまだつづいているし旅は死ぬまで終わらないのだ。ただだんだんこの世から人間は離脱してゆく、それが年をとり死が近づくことである。ますますこの世への執着が強くなるというのも老人にはある。老人になってから欲がかえって強くなるというのは本当である。一方で我執も強くなる。淡白になるというではない、そんな人が多すぎるから老人は嫌われるのがわかる。


九六寝て年越すも時代かな

町の墓所死者も年越す除夜の鐘



寝ながら介護されながら病院で自宅で年越す老人がどれくらいいるのだろうか?相当な数だろう。
小高の人が80才以上の人が集まって町を活性化しようとしても無理がある。若者が集らないことにはとをにもなちない、若者が集る町にしよう、残る町にしようというのがこの辺の課題になる。高齢化は津波の被害にあったところでも相当深刻なのである。若いなら立ち直ることができるが老人は立ち直ることがむずかしい。あきらめる人が多くなるだろう。農林漁業は六〇才以上の人が大部分だろう。会社などで募集しても人が集らないという、まさに働く若い人が減っているからそうなる。そうなるとこの辺はいろいろなサ-ビスも受けられるなくなる。福祉関係など病院などではそうなっている。こういう問題はこれからも津波の被害にあったところや原発事故周辺ではつづくのである。


今年もいろいろ書き続けますのでよろしくお願いします

 大坂城の花見客
http://www.musubu.jp/shiropoem.htm

桜前線の短歌
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm


山桜の美
http://www.musubu.jp/sakuranew-4.html

前に書いたものののつづきとして書いている。年が明けてすぐアップできた。こういうことがインタ-ネットではできるからいい。
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