家と土地がアイディンティティの基本であった
(アメリカ支配が日本のアイディンティティを奪った)
kingdom の "dom" が、ラテン語の dominus(主人)から来ています。domain(領土)は dominus(領主)の土地です。kingdom は「王の支配する土地」という意味ですね。
dome はラテン語の domus(=house [家])が語源です。dominus は「家の主人」です。dome は「家」という語源から来ていますが、本来はもっと大きな教会というイメージです。教会も大きな家ですね。
domestic
家事奉公人, 召使い.
(domestics))国産品.
[ラテン語domesticus(domus家+-ticus=家の)]
言葉がその土地から生まれた根源的アイディンティティというとき数学のように全く土地から遊離して抽象化したものではないためである。いかに人間はその土地と家からアイディンティティを見出してきたか、築かれてきたかを見直すべきだろう。アイディンティティにはいろいすあっても基本は土地と家にあった。天皇ももともと公(おおやけ)としたときそこは公は大家(おおやけ)であり人々が集る大きな家のことだった。社(やしろ)もまた村の人が集る家のことである。そういう場に基本的アイディンティティが作られてきたのである。歴史的にも家が拡大化したのが国家になった。平氏であれ源氏であれそれは一つの家が拡大化したものである。これは外国でも同じである。ハプスブルク家とかが国家を形成した。一つの家が国家となっていった。封建制も藩の支配も一つの家に仕える奉公することだった。それは商家でもそうであり昔の商人はやはり藩に奉公すると心理的に共通していた。もともと国家は一つの家が拡大化したものである。戦争の起源をたどれば家と家の争いになる。人間も生物だから本能的生物学的発展をする。聖書だって一つの家の歴史であった。その祖先が一番古くたどれる家の歴史だった。家が歴史の基なのである。家というのは最も原始的最強の共同体である。それは今でも変わっていない、だから今日のように人が共同体から除外されるとき家族がいないほど悲惨なことはない、無縁化社会とは最も悲惨な不幸な社会である。所属すべき共同体がなくなったことはどこにもアイディンティティを見出せなくなるからだ。
●アメリカ支配が日本のアイディンティティを奪った
こうした根源的アイディンティティであった家が奪われたときすべてが損なわれたのである。家など古いものであり人間の自由な生活を奪うものであり否定的なものとして戦後は家の否定であり個人の自由を求めた。しかし個人の自由は必要でもそのアイディンティティの基礎になるのは土地と家にあった。結婚も家と家の結婚であり恋愛結婚などまれだったろう。自由恋愛の結婚の結果かえって離婚が増大した。これも家を無視した結果だったのである。古い道徳などが由来するものはそれは長い人間の経験の結果でありそこに歴史の重みがある。民主主義などでも全く古い日本的道徳を壊すだけでそれに代わるものができたわけではない。ただ自由とは個々人のエゴ、欲望の追求になったことでもわかる。要するに技術的なものはとり入れることができても精神的な道徳などはモラルは簡単に根付かないのである。そこに現代の混乱があった。戦後は戦争に負けた結果アメリカ化が社会を変えてしまった。日本に昔からあったものが根こそぎ古いものとして否定されたのである。ただ民主主義という言葉だけが踊り欲望のほしいままなる追求が是認され金だけが価値となった。日本はアメリカと同じ社会になったのである。
明治にはアメリカ的価値観、金銭崇拝主義を批判して日本人は習ってはいけないと警告していた人がかなりいた。それは中国文化でもそうであり習っていいものと習っていけないものを見分けて外国の文化を輸入していたのである。何でも外国がいいものとしてとり入れることは国そのものが破壊されるのである。その国にはその国独自の歴史がありその上に今日がある。その最たるものが家の歴史だった。家にアイディンティティの基本があった。家に尽くすというとき古いようで確かなアイディンティティがそこにあり生き甲斐となる。人間は生物的に家であれ土地であれそういうものと一体化する宿命にあった。そこに人間の生きた血が通い強固なアイディンティティが作られてきたのである。家と土地が人間のアイディンティティを造り人間を文化を作ってきたのである。
●グロ-バル経済よりドメステック(国内、家)経済にもどる
これからの時代は会社が突出して社会の規範とった時代は終わる。グロ-バル経済というのもまた金融資本主義というのも見直される。それは人間的感覚からはずれたものである。エコノミ-が家計、家政から発したというときあまりにもはずれてしまった世界である。マネ-ゲ-ムに人は踊らされ株で一攫千金を夢見ている社会は異常だったのである。むしろこれからdomestic economyを志向するようになる。それは江戸時代から明治大正辺りまであった家の経済である。それはヨ-ロッパだったら中世社会の落ち着いた社会であり日本だったら江戸時代にもどる。ヨ-ロッパと江戸時代はいろいろな面でにている。アメリカはその風土もそうだが全く異質な世界でありその国家も全く違ったものとして成立したからにていないからかえって異質なものであった。その異質さが新しものとして錯覚した。アメリカが先進的文化ではなく今までにない異質な国家でありそれをとり入れることは世界のすべてであっているわけではない、なぜならアメリカ意外は歴史的国家だからである。人はやはりドメステックなものに安らぎを覚えるのは基本的にそういう場から育ったからである。
●司馬遼太郎の引用(歴史と小説)
戦前の家がもっていた重厚な伝統と美意識などはなく、いかにも手軽で薄っぺらでいかにもインスタントである。そのインスタントの家庭の集まりが今日の日本社会であり日本国そのものである。
我々のこの社会やこの国をふりかえるとき、インスタンの気安さをありがたがりつつも我ながら薄っぺらで、わびしく、ありがたみがなさそうに見えるのはそれだろう。
わたしは旧民法の「家」を復活しようとするものではない、しかし昔の家には歴史と伝統と秩序と精神美があった。そこから出てくる人間の骨髄にそれがしみこんでいる。その家に反逆するに値するがけの実容量があったが今の家や社会にはない・・・
人間の骨髄にそれがしみこんでいる・・・まさにそれは理屈ではいいない、自然と体にしみこんでくる血が通ってくるものである。土地と家とか歴史が一体化してそのアイディンティティを実在を作り上げていたのである。戦後は会社人間になりすぎたのである。戦争中は国家人間になりすぎた。日本人はそういう傾向がある。一つのものに染まりすぎてしまうのだ。会社が国家となったのが戦後だった。そして原発事故も起きたのも戦争とにている。アイディンティティを一つのものに求めすぎて他を見ない、そういうふうに一億が固まり安いのが日本人の強みであり弱みだったのである。これからは会社一辺倒の社会は見直される。その弊害は世界の環境破壊にもなった。会社とは何かが突出するのであり一つのモノを部品を生産しているのであり全体の考慮がたりないのである。技術優先科学優先になるのも回りを考慮しないで是認される。それが原発事故につながった。会社が国家になることは利益優先主義であり利益をあげるためにはモノを売るためには戦争もする。そういうことを世界的にしてきたのが欧米でもあった。会社が国家になれば必然的にそうなるのだ。原発事故のように誰も歯止めをかけることはできなくなるからだ。
アメリカの基も会社であった。なぜロックフェラ-やロスチャイルドが裏で操っているとか常に言われるのか?それは巨大な会社であり富豪である。アメリカはその会社が国家となったものだともいえる。それは日本だってそうである。今や会社が国家であり会社が生殺与奪(せいさつよだつ)をもっているのだ。法律でも会社の有利なようにすべてなっている。保険会社でもそうであり法律をてこにして保険金は少なくされる。アメリカも会社が国家の社会でありそれは世界的に共通したのもになっている。そして会社は利益追求だけを求めるとするとき世界に害を及ぼすものとなる。環境を破壊しても会社の利益のためにはしょうがないとなり是認されるのである。だからこれからは会社の力をおさえ会社一辺倒の価値観から逃れた社会作りが望まれているのだ。
なぜ働かないことに有能感を感じるのか?
http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-37.html
ここのプログでは会社アレルギ-になっているのがわかる、やはりニ-トとか派遣とか会社を拒否する人たちがでてきたのもそのためだろう。
働くということに意義が見出せないのである。団塊の世代はエコノミックアニマルとか会社人間だった。自分は会社に勤めたことないけど
当時はこんなに働かない人がいない、ほとんどいない、それがこれだけ働かない人が増えたのはその反動なのだろう。団塊の世代は異常に働きすぎた面があったのだ。