2006年04月02日

翁草三輪(高齢化社会は自然法則に反する)

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翁草鉢に二輪の咲きひそか一輪ふえてこもる室かな

鉢に二輪咲いていた翁草の一輪が咲きふえた。この翁草はまさに老人を象徴している花なのだ。花も人間を象徴したものだからだ。認知症を家族にかかえてから外に出れない、鉢に咲いた翁草の二輪が咲いて一輪が咲きふえていたのだ。この翁草は実に神秘的な花である。この花は長寿にふさわしい花なのだ。

しかしこの人類が初めて経験する高齢化社会はやはり一つの人間の限界に挑む戦いだったのだ。なぜならこんなに大勢の人が長生きすることは神が定めたことでもない、自然の限界を越えたことだから認知症とかの問題がでてきたのである。自然は子孫を残すことを最優先するとき実際は魚などが無数の卵を生むようにまた多くの子を生むようにする。というのは人間でも子供のとき死ぬことが多かったからである。自分の母方の兄弟でも子供の時8人生まれて半分死んだとかそういうのが普通だったのだ。適者生存でありそれに則して人間も子供を多く生んだのである。これに反して高齢化社会というのはこうした神の定めというか自然現象に逆らうものだったのだ。子供とか若い者中心になるのが強い者が生き残ることは種の保存とか強い生命の維持、連続のためには必要であり弱者は淘汰されるのが自然の命を維持するためには不可欠だからだ。それが文明化して生存条件に恵まれると弱者も80とか90の老人まで生きるとなるとこれは自然の法則、神の定めたことにも反するから認知症などという訳のわからない病気が蔓延することになる。80から90まで生き延びるということは神の予定にも想定されていないからその負荷が大きくなり適応できなくなり認知症などにかかる老人が多くなる。

つまり長寿を楽しみ生きることができるのは実際は限られていたのだ。その他は脱落者になってしまう。80〜90まで生きる時代でもそれに適応できない脱落者がでてくるのは当然なのである。その人は実際は早く死ぬべきだったのだが文明化で科学などや生存条件の良さで生き延びているのだ。でもそれらは介護せねばならぬとか認知症になり多大の迷惑人間となったり社会に大きな負荷をもたらす存在となったのである。これから500万人が介護が必要だとなると介護しきれない人たちが多くでてくる。社会自体も介護社会になったら本来の社会活動、健康な生活の革新とかできなくなってしまのだ。介護に追われると自分のことができなくなってしまう。特に若い人が介護の犠牲になることは嫌なことがわかる。若い人は老人の介護の犠牲になるより自分の才能のばすとかいろいろなことに挑戦したいからである。自分の場合はそういうことをしてきたし自由に人よりいきさせてもらったから仕方ないとなるがそれでも介護には得るものもあるがあまりにも負荷が大きすぎることが問題なのである。

だから高齢化社会の問題は高齢になっても認知症とか介護とか負担をかけないで生きることが老人は心がけねばならないがこれも実際はかなりむずかしい問題である。どうしても80を越えたら一割二割は認知症とか介護さられる人になってしまう。一定の比率でそうなるのである。いろいろ努力してもみんな介護もされない認知症にもならない社会にはできない、そこに高齢化社会のどうにもならない問題があったのである。
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