2011年12月22日

日本語を英語にしたら日本人のアイディンティティは喪失する (TPPで日本語まで英語にしようとする無謀)


日本語を英語にしたら日本人のアイディンティティは喪失する

(TPPで日本語まで英語にしようとする無謀)

●TPPの日本語の英語化はフェニキア人と同じ発想


第三に、自民党政府の「対米追従政策」が教育に反映されているからである。
アメリカの「日本語が貿易の障壁だ」という一方的な非難を受け入れ、「英語が使える日本人」を作ろうとしているのである。
http://www.prof-tsuday.com/etsusei/etsusei-1.html


言葉が何なのかそもそも謎であり解明できない、民族ごとに言葉があり地域ごとに方言があり違っている。言葉は第一のアイディンティティを作るものであり言葉が通じれば心も通じる。でも言葉というものがどうしてできたのか?それは謎である。英語を中心としたアルファベットはフェニキア人が貿易のために取引に便利なものとして作った画期的なものだった。なぜならそれまではエジプト人の神聖文字とか粘土版に刻まれた楔形文字でありこれは複雑であり簡単に理解されるものではなかった。つまりこの時からすでに広く汎用語としての共通語としてわかりやすい簡便なものとして言葉を作り出す要求があり作り出されたのがアルファベットだったのである。アルファベットにはそうした汎用語となりやすい性質をすでにもっていたのである。漢字とかはどうしてもエジプトの象形文字でありなかなか汎用語として通用しにくいものを今でももっているからアルファベットが主流となった。明かにアルファベットが数字的なものとして数学的なものとしても相性が良かったのである。それでなければコンピュタ-の言語が英語だからこそアルファベットだからこそソフトも開発されて今日のパソコンが普及したのである。アルファベットがコンピュ-タ-を作ったともいえるのだ。漢字が入っているような象形文字ではコンピュ-タ-の言語を作りえなかったのである。フランス語でもドイツ語でもコンピュ-タ-言語になりえたのではないかというと男性、女性、中性とか冠詞が違っていることでその区別がむずかしいから問題があった。英語が普及したのは英国とアメリカの世界支配があったのだけどやはり汎用語になりやすい、共通語になりやすい性質をもっていたのである。


●言葉はその土地土地の風土から生成発展した


言語の謎は深い。なぜなら言語はネティブというようにその土地の風土と密接に結びついて生まれてくる、自然に生成してくるような側面ももっているからだ。例えば日本語にしてもこれがどうして生まれたのか謎である。その起源がどこにあるのか未だにわからない、だからいろいろな起源説がある。イスラエル語も起源の一つになっている。それほど日本語は謎なのである。それでも言葉が数学とは違っている。数学は本当に世界の共通のものとして明確に認識される。そこで科学は世界的普遍的なものとなった。しかし言語はそうではない、そもそも言語は明かにその土地と密着して生まれているからだ。だから日本語の起源を外国に求めるより日本で生成発展したとみるのがいいのである。確かに外国起源のものがあっても日本の風土に密着して育まれ発展したのである。例えば「静けさや岩に沁み入る蝉の声」というときこのしみ入るというのが日本独特の言葉であり翻訳できないのである。それは感覚的に日本に住んでいないと理解できない。

しみ入る湿る-しめったとかから出た言葉なのだろう。日本では雨が多いからしめっている・・・それで雨がしみ入るとなる。それは岩でも苔でも雨がしみいる、そういう湿潤な風土から生まれた言葉なのである。外国では雨が少ない所も多い、砂漠のような所も多い、そうしたらしみ入るという言葉の感覚は理解できない、からからに乾燥しているからだ。日本の風土は常に土でも岩でも苔でも植物でも雨がしみ入るという表現になる。この感覚はモンス-ン地域で共通しているからモンス-ン地帯に起源を発していると言えるかもしれない、でも日本的風土とマッチして生成したことは明確である。外国では一般的に乾燥しているから言葉もからっとした感覚のものが多い。クリア-とかもそうであり乾燥地帯に生まれた言語なことはまちがいない。言葉もそういう風土に根ざしているのだ。

だから俳句というのを外国人は理解できない、現実に英語に俳句を訳すと実につまらないものになるのだ。実際は詩は訳すことができないのである。ホイットマンの詩でもあの広大なアメリカを詩にしたとき言葉がすでに表現できないものとなっていた。グランドキャニオンなど言葉で表現できない、表現を絶したものであった。だから言葉で表現しようにも言葉を超えてアメリカという巨大な世界があった。それに肉薄しようとした格闘としてホイットマンの詩が残ったのである。それは日本的風土感覚とはまるで違った想像を絶するものだったのである。


日本の四季は外国では経験できない独特のものである。だからこそ季語を中心とする俳句芸術が生まれた。これだけ短い芸術が生まれた。でも英語に訳すと実につまらないものとなってしまう。これのどこが詩なのかとなる。俳句を理解するには日本に少なくとも一年住んでみないと理解できない、なぜなら四季を経験しなければ風土とか天候を理解しないと理解できないのである。日本の気候はめまぐるしく変わっている。大陸はこんなに変わらないのである。北海道が多少大陸の風土ととにている、だから北海道では何か俳句がひったりしないのである。明確な四季がないから季語も適用できないのである。

つまり風土を知らなければ芸術も理解できない、何かドイツの大地を一度踏んだだけでその大地からドイツのみにあるエネルギ-が放出されているのを感じた。それがベ-トベンの音楽を理解するものであった。ゲルマンの大地からベ-トベンの音楽も生まれていたのである。だからドイツの大地を踏まない限りベ-トベンの音楽も理解できないというのは本当である。何か憂鬱だったり暗く感じたり重苦しいのは霧が多いとかそうした風土気候のためだったのである。ゴシックの建築は明かにゲルマンの森を原型にして作られた。その石の柱は樅の樹なのである。ドイツの樹は樅の樹である。タンネンバウムである。日本でも樅の樹がありそれを良くみているとドイツ人の心に通じるものがでてくる。ブナの樹や松の樹とは違っているのだ。日本では曲がった松である。ところが外国の森は樹は神殿や聖堂の柱のように規則的でありそれが合理的精神とか数学が生まれた素地だというときそういう感覚になる。熱帯の密林とは違っている。だから西洋文明が建築が基になっていることがその土地を踏むと実感するのである。システム的であり規律的であり合理的精神が育まれたということが実感としてわかるのだ。ドイツ語もそういう風土から生まれたのである。英語とはまた違っているのだ。英語はフランス語とかドイツ語の混成語であり純粋な母語というわけではなかったのはそのためである。


おお、モミの木よ、おお、モミの木よ
そなたの衣は私に何かを教えてくれる
希望と持続が
勇気と力をいつでも与えてくれる!
おお、モミの木よ、おお、モミの木よ

●言葉は始めは詩語であった


TPPでアメリカが日本語はむずかしいから英語にしてしまいばビジネスでもわかりやすくなる、効率的になるというときまさにフェニキア人の発想になる。商業語、貿易語としての英語を使用しろということになる。エジプトなどの象形文字では能率的でないとなる。このことはシュペングラ-も言っている。世界が数字化してくる。言葉も故郷喪失してくる。言葉は風土からも離れてより数学のように抽象化してくる。そうなると共通語としては理解しやすいのである。その代わり文化はculureは土を耕すから発した文化は消失する。その危機をシュペングラ-は書いていた。もちろん詩も失われる。実際に日本人の言葉の感覚はかなり喪失した。明治時代の言葉の感覚は豊だった。古語も使っていたし漢詩も明治に興隆していた。江戸時代の継続で日本人の言葉が継続して生きていたし義理人情とか日本人の古典的タイプの人が残っていたのである。だから明治は偉大な時代だったと評価されるのだ。


言葉はもともと詩語であり一つの詩として生まれた。商業語ではない、詩語であるから数字ではないそれぞれの風土に根ざして風土から生成発展したものでありその風土にマッチしたものとして生成発展したのである。言葉だけではない文化はすべてその国の風土を基にして生まれている。ただ文化的に見れば言葉というのは英語には英語のいい点であり中国語には中国語のいい点がある。その国独特の文化が言葉だから当然そうなる。日本に時制がないというのは相当な表現的には弱点だった。過去が明確に意識されないことは歴史も意識されないのである。だからといって日本は英語にしろというのは暴論である。それでも日本語を英語のように改革できない、言葉が簡単に改革できないということがまた問題なのである。どうしたら過去を明確に認識する言葉にできるのかとなるとできない。日本語と中国語は漢字を通じて混成語になったけど英語はなりにくいのである。それは言葉の性質があまりに違っているからなのである。すべてにおいて英語が優れているとならない、日本語の方があることを言うのに深い意味合いをもった言葉がある。それは日本の文化であり訳すことがむずかしいのだ。それは外国語全般に言える。外国語をいくつも知っていれば多面的に深くものごとを見ることができる。アンディンティティについて書いたけどあういう言葉自体が日本語にはない、漢字にもない、すると訳しようがない、でも何かこの言葉一つ自体が実に奥深いものだと理解した。民族の言葉自体も民族のfundamental identityであり根源的アイディンティティだからである。

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