2011年12月18日

冬の菊-冬薔薇 江戸時代の回帰はもはや懐古趣味ではない


冬の菊-冬薔薇

江戸時代の回帰はもはや懐古趣味ではない


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冬薔薇一輪痛む我がふれぬ


冬薔薇なお一輪の咲かむとす


はや午後や石に日のさし冬薔薇


大輪の十輪畑に冬の菊


城下町主君に仕え冬の菊


今日もまたよりそうものや冬の菊


午後静か冬菜に菊や飾らざり

冬なれどタンポポ咲くや浜通り


巣の破れ今日は消えにし冬の蜘蛛


代々の江戸の老舗や冬の暮


壺屋の謂われ伝えて年の暮

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冬薔薇の写真をとったけど実際はこれだけではいつの季節なのかわからない場合がある。そこでまわりに木の葉が散っていることで冬だとわかる。つまり写生には奥深さ深みがある。単なる写生でもそうである。デジカメはだから写生俳句の道具としてぴったりなのである。忠実に写生する写し取るのがデジカメだからである。大輪の十輪の菊も写生である。何も説明しないで大輪の十輪の菊が咲いていれば圧巻である。でも冬になっているから微妙に色あせていることがこの写真から見る必要がある。写真だとこうした点まで見れない場合がある。写真が万能とはならない。椿の写真でもこれが冬椿なのかというときわからない場合がある。午後の日が静かにさしてなんともいえないなごみがある。ここは我が町に一軒だけある旅館だった。民宿でありそれなりに垣根をめぐらしている。垣根ということが日本的で椿にあっていたのだ。椿はそもそも南国系統でも日本化した花になった。薔薇も冬薔薇でもそうである。薔薇はもともと夏に咲いているもので冬ににあわないが四季それぞれの趣が生まれた。


菊というとキクでありそういう名前が日本では多かった。最近そうしたキクとかウメとかいう名前は消えた。菊というとき菊は忠節とか律儀とか何か精神的シンポルとしてあった。江戸時代はまさに菊が名前としてふさわしかった。名は体を現すであった。城下町に菊が咲いているというときその風景とあっていた。主君に仕える夫に仕える女性が菊なのである。それは日本の文化でもあった。

何度も江戸時代とかに帰る時代、国風文化の時代がくるというときまさに今がそうなのである。それはもはや単なる懐古趣味でもない、現実的問題として江戸時代への回帰が必要となっている。江戸時代の三百年に培われたものが何なのか?それが明治維新以後急速な変化で忘れられ失われたのである。だからそれを取り戻す必要が出てきたのである。それは根本的な日本人のモラルの点でもそうである。日常生活のレベルでも菊という名前が消えたようにまさに菊のような女性も消えた。仕えるということも消えてただ自分のエゴを主張するだけの女性となった。名前も何を意味しているかもわからない、菊のような女性になりたいなどということはもうない、名前からして何を意味しているかもわからない。そこに日本の伝統的なものが失われたのである。そういう卑近な所でも切実に日本人として失われたものを戻したいということがある。それはいろいろな面でそうなっている。


江戸時代の老舗というのをテレビで放映していたけど今にもつづいている。おそらく江戸時代の店とか農家でもそうだけど職人すら何代もつづいていた。そうした長い時間で培われたものがあった。今のように十年二十年とかで変わっていたら何かいいものはもの作りでも精神的な面でも養成されない。親子は一世、夫婦は二世、主従は三世・・・という言葉が残されている。この意味を何なのかというとわかりにくい。主従が三世ということがわかりにくい。今の時代なら主従関係などどこにもない、会社にしても同じ会社で社長に三世仕えるなどまれだろう。大きな会社ですら変わり方が早いからだ。江戸時代の老舗では勤める人も代々親子で三世で働いていた人がいた。奉公していた人がいた。主従が三世というときそれだけ結びつきが強い、一代で終わるような結びつきははかない。そこには長続きするものが培われないのである。主従が三世というときその結びつきは今の金だけ結ばれているとかではない、そういう利害もぬきにした強い絆があった。

それは今の時代では想像もできないものである赤穂浪士もそういう主従関係から生まれた事件であり今では馬鹿らしいとしか思えない。それは主従は三世という結びつきからそうしたことが生まれた。そこまで主君のためにする必要はないというとき現代の打算的な金銭でしか結びつかない時代とは雲泥の差があったのだ。江戸時代は今や単に懐古趣味で回想するというのではない、現実問題として現実社会に反映させるべきものとして江戸時代を見直す必要があるのだ。現代に失われたものを取り戻すには江戸時代を見直し現実的に反映させることが必要だからである。


口上に<町民が開いた最初の「江戸根元」菓子店>わざわざ書かれているのは、それまで菓子業は関西から来た人間に占められていたそうで、江戸の町人が開いた店として「最初」なのだそう。禁裏御用を意味する御用菓子司となり、清水徳川家・一橋家のような大名を顧客にし、虎ノ門(西久保八幡町)にも店を増やすなど大いに繁盛していたようです。
http://www.gonzoshouts.com/place/1395/


これも興味深かった。江戸は関西から文化が入ってきた。江戸根元というのも面白い。なぜ壺の形の最中になったかというとその当時砂糖が貴重であり壺に入れて大事に使っていたから壺の形になった。そういうところからもものの大切さを学ぶ、そしてその味をゆっくりと味わうのが江戸時代に帰ることなのである。徳川幕府に世話になったから明治になって店をやめるとか言うのもやはり徳川家の恩顧を大事にしていたというのも今ではなかなかわかりにくい、徳川家の影響がそれだけあったということになる。そういう庶民的な所にも歴史が残されているのが江戸や京都だとなる。

浜通りとなると会津などと比べたらあたたかい、雪もふらない、だからすごしやすい、タンポポも咲いていた。会津などは冬は雪に埋もれるからその生活感覚が理解できないのである。この辺の問題は原発事故で相馬藩とかの歴史の一部が土地と共に断たれるという不安である。まず心が安定しないのである。こういうところで過去の文化を見直し今に活かそうとすることがうまくいかない、小高区辺りまでは南相馬市までは人が住めるようになるだろうけど浪江とかになるとむずかしくなるのか?
そうなるとかつての相馬藩は狭められたものとなってしまう。代々すみつづけた土地があって伝統もあるとしたらその土地が喪失したら伝統も断たれる。そういうことで不安になってしまうのである。

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