2011年12月07日

鴨(自然と一体化するには時間がかかる-故郷を離れられない訳)




(自然と一体化するには時間がかかる-故郷を離れられない訳)


故郷の川になじむや鴨と月


故郷を離れられじも残る柿


冬薔薇菊と並びて庭の暮る


冬の菊今日もこの道買い物に


冬の月建設現場に光るかな


冬紅葉訪う人なしに今日も暮る


冬の日に橲原の奥大石の動かずあれや人も同じく



この辺のテ-マが常に動かないとかになる。今までは別に石なら動かないで普通でありとりたててそんなことを強調する必要もない。ところが今この辺は原発事故で常にゆれ動いている。現実に故郷に住めなくなった人達が大勢いるのだ。30キロ圏外でも何か心かゆれて落ち着かない、普通だったら土地があってそこに歴史を刻んできたのである。そこから離されてしまったという事実である。
故郷に存在できないという現実なのである。それは何を意味しているのか常にテ-マになってしまう。人間のアイディンティティとして自然がある。この自然のアイディンティティはなかなか作れない、なぜか?自然の時間的スケ-ルが人間のせわしい生活感覚と違っているからである。現代のような時間に追われるなかで自然とのアイディンティティを築くことは容易ではない、時間の感覚があまりに違いすぎるからだ。樹でもいしでも山でも時間感覚が違っている。だから自然と一体化することは時間がかかるのである。やはり一生住んで死んでその土地の土となるというのが生き物として自然なのだろう。そういう根源的場としての故郷を奪われたらどうなるのだろうか?それが現実にこの辺で起きている。だからそのことに納得いかない人が出てくるのは当然である。金もらって他で住めばいいじゃないかと簡単にならないのだ。そこに原発事故の深刻さがあったのでありそうなってみて気づいたともなる。自分の故郷に家に住めなくなるなど考えた人もいないだろう。でもそれが現実化したときそのことを毎日考えることになってしまったのである。


故郷の川に鴨がいつもいる。今日は月がでている。ただそれだけのことだけどなじむというときやはり長年住めばなじむのでありそのなじんだ土地から離れるということはなかなかできないのが人間なのだ。残る柿というのもまたそうである。柿は何か土着的果物なのである。とにかく土地と一体化して生活している農家の人だったらもっと故郷や自分の暮らした土地から離れることは考えもしなかったろう。そういう人達が都会に住み離れて仮設住宅に住んでいる。避難した人達でも老人が多いのである。津浪の被害にあった地域でもなかなか元の住んだ場所にもどれないのである。だから残る残れないとか離れられないとかがテ-マになっているのだ。


橲原の奥には森があり大きな石があった。それは橲原から一体化してあったのだ。自然は村でも全体として存在している。村はそもそも自然と一体化して長く存在していたのである。その村が消失するということはどういうことなのか?そのことが現実化してもそれが現実と思えないのである。それは津浪の被害にあったところでもまだこれが現実なのかと納得し得ない面があるのだ。心が何か宙ぶらりんのようになっていないか?落ち着くべき故郷から土地から遊離してアイディンティティを失った状態にないか?もちろん自分は30キロ圏外でそうする必要はないにしろ回りがそうなのだからその影響を強く受けている。だから心が落ち着かず宙ぶらりんな心になってしまうのである。南相馬市では現実に働き手が若い人が避難して帰ってこないとか正常な生活にもどれない、働き手がなくなれば街を維持できないという深刻なものとなっている。でも放射能汚染で若い人が生活したくないとしたら留めることもできない、そしたら老人だけが残る。でも老人だけでは市の生活を保てなくなる。
最期は姥捨山になるのか?なんかそんな不安から逃れられないのである。

 
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