2011年12月03日

近江から京都-春の俳句連作 (安土桃山文化の考察)


近江から京都-春の俳句連作

(安土桃山文化の考察)


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大津皇子若き死あわれ春の逝く


楽浪の都の跡や春深む


近江にそ敗れしものや春深む


信長の上洛果たし城成りぬ


春の日や楽市楽座近江かな


安土城黄金の瓦春の夢


職人の瓦に金箔近江の春


春の夢安土桃山の絵巻かな


信長の炎に消えて春の夢


春の日や幾日過ごすや京言葉


京に入り夢をかなえむ春満月


女御達御所に百間の物語


技伝ゆ錺り師棲むや春の京


路次入りて鍵隠町や春の京


障壁画千面残す春の京


春の日やここは京なり寺の鐘



戦国の力を示す城なるもたちまち消えて春の夢の跡


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


肘掛けに殿の間奥にいつの日や時の長しも春の日暮れぬ



安土桃山時代は華やかだった。それは信長や秀吉の一時の栄華のようにはかなく消え去った。信長の安土城は今までの城とは全く様相を異にする新企画の壮大な城だった。それも全く一時の夢のように消えた。そんな城があったということもなかなか想像しにくい。秀吉の大坂城は城として残り今もその栄華は感じる。安土桃山城はその栄華も束の間だった。ただ信長は一つの時代を変えた革命家でもあった。それはヨ-ロッパの歴史とにていた。ヨ-ロッパの歴史はロ-マ時代からキリスト教の歴史でもあった。それはカトリックであり強固な権力的支配だった。ロ-マが政治で優れていたというとき宗教も政治化された面があったのだ。宗教は宗教都市と化して人民を支配した。政治的支配力があったのである。その政治と宗教の一体化に圧迫された歴史が長かったのである。千年以上そうした圧迫のもとにありついにルタ-がでて宗教改革が起こり改革された。宗教の支配の軛から脱することができた。ヨ-ロッパの歴史は常に宗教支配からの離脱が一つのテ-マになっていた。それは宗教があまりにも政治力をもち権力をもっていたためである。そしてナポレオンによりカトリック教会の支配は完全に打破されたのである。するとナポレオンは信長とにていたとなる。比叡山を焼き討ちして僧侶を虐殺したこととにている。それまでは日本も宗教の力が大きかったのである。日本でも権力をもっていたから権力争いになったのである。宗教はそもそも権力をもった時すでに宗教から離れて政治化していたのである。 そして熊本城の安土桃山文化の復元が成ったがそのNHKの放送で信長の安土城を作るために職人を獲得するために比叡山の焼き討ちとか僧侶集団を滅ぼそうとした。それが職人を得るための具体的な利益を目指していたというのもそれだけそれまでの富は寺院の中にあったのである。


建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし・・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%
BB%BA%E7%AF%89%E5%8F%B2


大工が聖徳太子を祭っているのもそのためである。それは法隆寺の建設のときからはじまっていた長い歴史があった。西には日本の長い歴史が積み重なっている。近江の魅力はその歴史にあるけど自然が豊であることも魅力なのである。琵琶湖があり比良の山々がありと変化に富んでいるのだ。多賀神社にしても伊勢と並び本当に古い謂われがある。様々な歴史が積み重なっている。安土桃山城を信長が造営して楽市楽座を開いたというのも商業の興隆になった。それは全国に広がったのである。

近江商人の元をたどればこの辺からもでてくる。近江商人は全国に散らばり栄えた。そもそも近江とか大阪京都となると人間が東北のような性格とはあまりにも違っている。東北は未だに百姓的農民的性格が根づよく残っている。商人の気質に欠けている。商人に向いていない,それは今でもそうである。東北には豪商が育つことがなかった。農民が大半であり豪商は育たない、それで伊達政宗が伊達ものとして中央に威勢を張った。つまり大半の民衆は貧乏であったが中央には威勢を張らなければならないからそうなった。強く見せるためにあえてそうした。信長の安土桃山城の建設も秀吉の大坂城の建設も当時では権力の象徴として建設された。あまりの豪華さに大坂城を見た毛利は秀吉に逆らえない、従うほかないと思ったということでもわかる。つまり建築は権力の象徴になるのだ。


それは古代からはじまった。日本では大古墳でありピラミッドでありロ-マのコロセウムもそうした建築を誇るものだった。中世の教会も権力を象徴する面があった。ただ権力でも文化の裏付けがありただ大きいというだけではなかった。精神的シンボルでもあるからそれは後世に美として文化として残されたのである。熊本城は豪勢な城だった。外国の南方との貿易を計りその利益を得て資金にしたということもあった。薩摩が中国との貿易で財を成して雄藩となったというのもやはり九州は外国と通じやすいからそうなる。東北は外国と地理的に通じにくいのである。みちのくではそもそも本当の栄華を経験したことがない、城も伊達政宗の青葉城や会津の城をのぞいて小規模なものである。西には大きな城が多いから違っている。それだけ栄えたということである。みちのくでは平泉の栄華があったにしてもそれも一時のことであり三代で消失したはかないもので「五月雨のふりのこしてや光堂-芭蕉」で終わったのである。京都が千年の都とするときその栄華は余りにも短すぎたのである。
人間の文化には必ず歴史的蓄積が必要なのである。文化が華咲くにはそうである。ルネサンスはそうした西欧の歴史的蓄積から起こった。それもイスラム文化も入ってきた国際的なものとして起こった。

江戸時代も鎖国であったが日本の内部的国力を養うものとして働いたという説も面白い。外国との交流で力を消耗しなかったというのも面白い指摘である。確かに明治維新後を見れば一目瞭然である。大戦が三回もあり日本の国力は消耗しただけではないかともみれる。常に日本では外国の文化をとり入れても奈良時代の唐風文化から平安京の国風文化へまたは鎌倉時代の武士の文化へと国風文化が盛り返してくる。明治維新後は外国との交流に消耗されすぎた。だから奈良時代のあとに平安文化が交流した,国風文化になったように日本も欧米化とかではない、国風文化の時代になる。新しい国風文化の創造の時代になる。

結局戦後60年とかは物質の豊かさを追求したのである。それがここにきて終わりを告げる。その象徴がこの辺で起きた原発事故かもしれない、原発も物資的富の象徴としてあったのだ。団塊の世代が生きた時代は物質的には恵まれた時代だった。高度成長であり一つの平和な栄華の時代だったのである。しかしそこに文化は育たなかった。文化の栄華はこれからなのだろう。本当のルネサンスはこれからなのだろう。一方で経済的には衰退するにしても文化は興隆の時期にくる。物質的豊かさの次は精神的豊かさを求めるからである。ただつくづく人間の栄華は短い。繁栄も終わってみれば短い、はかなく無常だというのは変わらないのである。この辺ではそうした無常を津波や原発事故で身をもって全員が感じることになったのである。


常磐木の松の緑や殿の間に長らくあれしと今はなきかも


殿様も悠長な栄華の時間の中にあったがそれも一時だった。江戸時代前は時間はゆっくりと流れていた。その残されたものが物語っている。和時計であれ殿様の肘掛けであれ何かゆったりとした時の流の中にそうした物もあった。それがめまぐるしい時に追われる現代から比べると癒しとなる。江戸時代をふりかえることは常に癒しなのである。それは過去への深い郷愁なのである。結局自分にも個々人にも栄華あり過ぎ去ってしまった。常磐木の松のようにいつまでも変わらぬものとしてありたいと願っても時は無常でありたちまち人生は終わりを告げる。これで終わりか?百年生きても人間は儚いとなる。ああ 青春が帰ってきてほしい、栄華のなかにまだいたいといってもそこにいたのは束の間だったのである。


熊本城の釘隠し
http://www.geocities.jp/joysunny/kumamoto/kumamoto048.htm


京都の釘隠町の由来
http://www.linkclub.or.jp/~mcyy/kyo/names/kugi/01.html


京都の鍵隠町の話は面白い。やはり京都だなと思う。釘隠しが立派なのでみんな見に来たからこの名が残った。これは町家だけど町家でもそれだけ立派なものが建つ、そこが違っているのだ。旅するにもこうしたいろいろな歴史を知らないと通りすぎてゆくだけになるのだ。インタ-ネットではそうした故事をたどり旅できるということもあるのだ。京都など実際に行ってみてもこうしたことがわかりにくいのである。

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