2011年11月09日

モラルなき欲望資本主義はすでに崩壊している (働かない人が増えるのそのため)

 

モラルなき欲望資本主義はすでに崩壊している

(働かない人が増えるのはそのため)

●修道院からはじまった資本主義


当面生活に必要なお金が手に入れば、それ以上働かないというのが生物としてはむしろ自然な行動だと思います。


労働そのものに価値を見出し、経済発展を遂げた国はプロテスタントの国と日本だけです。


キリスト教の信仰から、近代資本主義に必要な「勤勉」「契約の遵守」「所有権の確立」「資本の蓄積」という考えが出てきたのです。


カトリックは一般信者を甘やかしたので、この精神も希薄ですが、プロテスタントは厳しくキリスト教の原則を守りました。


http://plaza.rakuten.co.jp/sailmssn/40000


人間はそもそも本来は怠け者であり働かなくてもよければ働かない、勤勉になるのはそれなりの理由があるのだ。資本主義は修道院の中から生まれたというときまさに宗教と特にキリスト教と関係していたというときその基になるのが宗教だった。神に仕え人に奉仕するために勤勉になったのである。人間は豊になりたくてもそんなに働かない、働かないことを選ぶ場合だってある。労働は過酷でありすべての人が過酷な労働に耐えられないし選びもしない、貧しくてもそれなりに暮らせればいいとか考える人がいるのだ。江戸時代は会社に勤めていない、職人は一人一人であり商人も棒ふりなど一人一人の零細な商人だった。大きな商家はあっても底辺の多数は一人一人の商いであり職人だった。だから会社のように何時間働けとか強制されない、今日はこれくらい稼いだからあとは休もうとか働く時間もル-ズなのである。分刻みで働かせられる現代とは違っている。工業会社社会ではそういう圧力から逃れることはできない、会社員でないものは人にあらずとされるからだ。ただそういう会社社会の勤勉ももともと修道院からはじまったのだから宗教的なものとして出発したのである。その宗教的モラルが強制力をもつようになったのが社会全般に普及したのである。侍のモラルが民衆のモラルとなったのと同じである。商家でも奉公するというとき侍が主君に奉公すると同じなのである。

●侍はモラルの模範であった


侍のモラルを習って商人のモラルもあった。修道院のモラルが一般社会に普及して人々は勤勉になるようになった。それは最初は自主的なものであり強制されるものではなかった。信仰はいくら信じろと言っても信じない人は信じないからだ。どんなことでも人間はすべて強制してやれるものではない、奴隷すら強制的に使用はできない。その人が何か有効な価値を見出すとき自主的に働くことになる。その時その人は本当に金だけではない労働自体の価値を見出しているのだ。そういうことは本当に特別なことではなくあらゆる仕事にある。ヘルパ-とか掃除婦とか卑近と思われる仕事でもある。

ただ労働は今や一般的に苦役であり強いられた労働となっている。初期の自主的にはじまった資本主義の精神とは違ったものとなっている。それは宗教意識、信仰の堕落だともなる。働くモラルが低下したのである。また初期の信仰心から発した労働と今はまるで違ったものとなってしまった。ただ欲望を満たすだけための労働となった。最初は勤勉であり節約が美徳とされ労働はあまり消費に重点を置いていなかったのである。そもそも修道士は禁欲を実行するものだからそうなった。仏教でも修行者は禁欲を実行する者である。だから修道士や僧侶がぜいたくすることは禁止されるし他からみても許されないのである。


労働そのものに価値を見出し、経済発展を遂げた国はプロテスタントの国と日本だけです。


日本人がなぜこんなに働くのか、勤勉ななのか不思議である。労働自体が救済であり労働自体に価値あると見なしているからだ。働くことが勤めるとは仏教のお勤めのことである。お経をあげることである。それは宗教と関係していた。働くも端を楽にするということは他人を楽にしてやりたいということは助けたいから働くということは宗教的と言えないことはない、働くにはそういう動機があったのである。働くことは自分もそうだが他人を益すること他人を助けるということがあった。奉仕とか奉公とかはそういうことがあったから出てきた言葉である。自分も無化してただ仕える奉仕するということがあった。そういう仕事は今でも家事とかに残っている。家事するのは無報酬の愛が基でありそれがなければ成り立たない、その家事を切り離して利益労働にするとただ利益だけを追求するようになる。家事から離れるとそこに愛は必要なくて利益だけを追求するものとなる。

つまり労働でも動機が大事でありその動機が失われたときその社会は崩壊する。「神は人の心を見ている」というときいかにあらゆる所で動機を見ているかわかる。犯罪でも故意なのかどうかまずみる。盗むにしてもコンビニなどで知らずにカバンにパンを入れてしまったことがある。週刊誌を読むのに気をとられてそうなった。全然盗む気がないのにそうなった。そういうのは犯罪にはならないが外から見れば盗んだように見える。殺意なくて偶然殺人になることだってある。そういうものも犯罪にならない、明確な動機がなければ犯罪にならないのだ。だからもし具体的に犯罪にならなくても恨みを抱き殺意をもったらすでに犯罪だというのも言える。それほど動機は大事なのである。


●モラルを実行する模範とすべきものがいない社会の荒廃


資本主義は修道院からはじまったのだから動機は今とはまるで違っていた。神に仕え奉仕するというのが先にあり禁欲であり節約であり勤勉があった。大金もうけてやりたいことをやるというのとは欲望を満たす資本主義とは違っていたのである。現代の資本主義はすでにこの動機、モラルの点で崩壊している。すべての働く人の動機はすでに不純でありただ金が欲しい欲望を満たす何か消費したい、贅沢したいという動機しかない、だから手っとり早いのは働かず盗んだ方がいいとさえなる。みんなそういう気持ちになっているのだ。現代はもうモラルが崩壊している。経済の基礎は道徳だというのは本当である。その基礎が崩壊しているのだから資本主義自体崩壊しているのだ。それは下々のものまでそうである。下々のものもモラルは江戸時代だったら侍を模範としてモラルを形成していた。

それで奉公ということが商家でも習ってそうなったのである。今や習うべきものがない、金をもうけることがけが最優先される。欲望を満たすことだけが追求されている。教育からして他人を蹴落としてまで受験戦争に勝ちいい会社に就職して楽をする得をするということを教えられる。その結果として東大を頂点とするヒエラルキ-が生まれた。官僚が身分だから壊せないというときそれは江戸時代の侍の身分とは違っている。侍は庶民と同じく貧しかった。


ただ模範とされたのはモラル的なものとして精神的な徳を実践するものとして見習ったのである。今は上に立つ人はモラルがない、官僚であれ、政治家であれ、会社であれ、あらゆるところで金さえ得ればそれでいい、利益を得ることが第一とされる。そして模範とするべきものはない、ただ金持ちを庶民はうらやむだけでありそのうらやむのは欲望を満たすことができるからいいというだけである。官僚の天下りとかそういうものを見れば誰もうらやましがるのはそういう身分になれば得をするということだからである。濡れ手に粟で金を入る立場になるということがうらやましがられているだけである。実際に上に立つものの腐敗がモラルのなさが原発事故につながっていた。ただ金を得るということで人々は働いていたのである。マスコミも宣伝費をかせぐためにそうなり官僚も巨大な天下り先だから監視が甘くなり地元も金になるということで見逃されてきたのである。技術的問題もあったがモラルの崩壊としても事故は起こっていたのである。


●資本主義はモラルが喪失したからすでに崩壊している


資本主義が修道院からはじまったとういとき余りにも今は変わりすぎた。強欲資本主義とか欲望充足のためだけの資本主義であり土地転がしとか金転がしで金融業がアメリカの産業だというときアメリカの働くモラルも最悪である。西部開拓時代はホイットマンのように働く人は実業に働く人でありその人たちが讃美されて詩になっていたのである。金転がしのようなことで巨万の富を得るような人達ではなかった。その時代は働くことでも健全であったのだ。資本主義はもう崩壊しているのだ。それは恐慌とかそういものではない、経済の基礎となるべき道徳が崩壊しているからだ。日本はそうではないというが日本も同じである。日本には明治時代あたりにあった義理人情とかまるでない、ただ金だけが

唯一の価値となってしまった。だからこそ今働かない人がニ-トなどがふえたりしているのは
働くことに意義を見出せない人々がふえたということもある。働かないということが価値観にすらなっている。働く奴は負けだとかさえなっている。それは余りにも働くということが金だけの欲望充足のための経済となったためである。唯一の価値基準は金しかない、金があるものが一番偉いのであり金がある人が一番責任がある社会である。金がすべてになればそうなる。金によってすべてが動くとなればそうなる。庶民も見習うべきは金持ちでありかただ金持ちになりたいというだけである。そうすればすべての欲望や願いもかなえられると思っているのだ。そのことが資本主義が崩壊していることなのである。そういうことが極点に達すればモラルがないのだから崩壊する。人間社会は基礎に何らのモラルがないともう維持できない、無秩序の弱肉強食の社会になってしまう。そういうふうにもうなっているから崩壊してゆく。


人間は明かに働くにしてもモラルが必要だったのである。ただ金だけ欲しいという動機の人は実際はヘルパ-でも家政婦でも家の中に入ってくる場合本当に怖い。家の事情がわかるから大きな犯罪に結びつきやすい、昔の奉公するというモラルもないとすると働く動機が金しかなくなれば人など簡単に雇えない、そういうことは金では福祉関係などでは助けてもらえないということである。社長が借金ある人は側近に雇うには信用しないとか金のない人は危険だというのもわかる。金に飢えている人は犯罪予備軍なのである。そういう人を簡単に信用したら大変なことになる。虎視眈々と財産をねらっているという怖さがあったのである。そういう恐ろしい時代にすでに入っているのだ。だからこそ資本主義はモラルの喪失から崩壊してゆくし実際に崩壊している。それが今や恐慌からではない、働かない人がふえたり上に立つものから下々のものまでモラルはなくなり崩壊しているのである。庶民にしてもモラル的に模範とすべきものなど何もない、今一番偉いのがお医者様になるけどお医者様にしても病院では利益第一主義でありいらない薬とか金のために無用な手術までしたり怖いことが起きている。それは金のために殺人するとさほど変わりないけど医療の現場では隠すことができるし許されるのである。医も算術になったのである。


●モラルが崩壊すれば法律も役に立たない


そういうモラルの荒廃が社会全般に起きているからこそ資本主義は崩壊する。原発事故もそうしたモラルの崩壊も原因して起こったのである。危険をかえみみずただ利益になればいいというだけである。それは社会全般にそうである。宗教はカルトとなりこれも利益追求を第一としてとても修道院からはじまったモラルなど皆無である。教えることは贅沢ができることでありそういう身分になれとはいうことで権力を追求しているのだ。そのために毎日祈っている、禁欲など全くないのである。モラルが崩壊することは社会が崩壊する深刻なことだとまだ認識していない、これは法律だけの外部からの強制では成り立たない、人間は自主的なものがなければ成り立たない、自主的に働くことや自主的に社会に参加して働くことがないかぎり成り立たない、強制では成り立たないから共産主義は崩壊したのである。

民主主義はそうした自主性を育つものとして作られた制度であるけどそういう自主性もモラルも喪失するとき最悪になる。自由は自由なエゴと各人の欲望を充足するためのものであり権利だけを主張して義務は実行しない、とにかく金だけはよこせというだけになる。ボランティアが震災で起こったがその時やはりその時働くこと自体人を助けることに意義と喜びを見出しているからこそできるものであった。その労働は修道院からはじまった資本主義の理念とか動機と一致していたのである。そこに働く意義をかえって見出したのはそのためである。ただ物資を運ぶことが人助けになっていたのである。まさに働くことが奉仕だったのである。
震災の負の面も大きかったがそういう点で助け合うのが経済だったということを見直したのはいい面として働いたのである。


資本主義の堕落がここに書いてある。
http://www18.atpages.jp/hisao123/newpage16.htm

posted by 老鶯 at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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