2011年11月03日

秋薔薇(写真と人間の感じ方の相違)


秋薔薇(写真と人間の感じ方の相違)

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数枚の花びら散りぬ秋薔薇


ここにまた一輪開く秋薔薇


今日の日や散るを惜しみぬ秋薔薇


とりどりの菊の咲きにつおおどかにラッパスイセン下がり咲くかな

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写真ですべてが現されるということもない、また人間の肉眼ですべて見えるとは限らない、デジカメで見えないものが見えたからである。一方カメラですべてが見えるわけでもない、秋薔薇というとき夏の薔薇との区別が写真ではできない、秋薔薇とあればこれがそうなのかと思うかもしれないが写真からは夏の薔薇としか見ない人もいる。一枚の写真からすべてを見ることはできないのである。

そこに道具の限界がある。人間が見るというときバラだけを見ているのではない、全体の雰囲気で見ているのだ。その雰囲気が写真家らはわからないから限界がある。写真をみて俳句でも短歌でもできない、自分で撮ったものはその雰囲気を全体を知っているから作れるのである。他人の一部分を切り取った写真を見て俳句や短歌を作れない。その花がどういう場所に咲いていたのか、そもそも都会と田舎では違っている。一部分を切り取った写真から判断できない、どれも同じバラに見えてしまうのである。


この薔薇を一瞬見たとき花びらが数枚散っていた。それはすぐわかったしそれがいかにも秋薔薇にふさわしかった。でも写真にしたらわからないのだ。そこが肉眼と機械の違いだった。人間は一つの花を見るにしても五感で感じているのであり単に目だけではないのだ。デジカメは目だけが拡大化して機能化したものである。辺りの雰囲気すべてを現すことはできない、そこにデジカメの限界があった。目だけが高性能でも五感で感じるのとは違っている。機械はどんなにしても高性能になっても人間の代わりは絶対にできない、だから機械はコンピュタ-でも俳句の一句も創造できないのである。

ただゲ-ムなんかはすでに将棋でもプロを凌駕しているということは機械の方が優れたものになっている。ということは将棋がそんなに創造的なものでないともなるのだ。しかし他の芸術的分野では機械は創造はできない、手助けはできても一つの俳句も絵も創造できない、抽象画などはコンピュタ-のソフトで偶然にできたとしてもその価値を意味を見出すのは人間だから機械は創造はできないのである。結局いくら機械がコンピュタ-が発達しても創造的な面では人間に及ぶことはないのである。
すでにゲ-ムはどんなゲ-ムでもコンピュタ-の方が勝つのだから人間は機械に負けるからゲ-ムをするのも馬鹿らしいとなる。


ただコンピュタ-が何かを感じるということはない、だから何一つ絵でも鑑賞することもできない、何が美なのかもわからない、薔薇と認識できてもそれが夏なのか秋なのか冬なのかわからないのである。機械には感情ももてない、悲しんだり笑ったりもできない、機械はどうしても人間の代わりにはなれないのである。

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