2007年08月09日

ノウゼンカズラ(凌霄花)(死者二人) 


一時に死者の二人やいまわのきわ何を言いしやノウゼン散りぬ


昨日二人も近くで一度に死んだ。一人は家のものと関係深い人だった。どっちも90だから死ぬ時期であった。その人の生涯についてはほとんどわからない、一人は女性でもう一人は男性だった。家族が認知症になってからも通っていた人だった。認知症になるとなかなか相手にしてくれる人がいなくなる。でもそこでは相手にしてくれた。それで死んだことは痛手である。死というのはいくらでもある。毎日のように死んでいる。だがそれがなぜ身近に感じないのか、そしてまた忘れるのが早いのか、人の死は何か意味あるものとしてありえないのか?ただ死んだときだけ確かにその人のことを考える。人はいまわのきわに言うことはやはり重みがある。平凡な人でも重みがある。男性の方は縄屋と屋号で呼ばれ鉄道の引き込み線で縄を売る仕事をしていたことを書いた。ただそれしかわからない人だった。驚いたのは10年も施設に入っていたということである。人生も老年の時間は貴重である。無駄をできない時間となっている。それが施設に10年もいたということはそこに貴重な晩年の時間が費やされた。
 
今やこういう人が多くなっている。この人も認知症だったのかもしれない、家におけなくなったというからだ。ただ10年も施設にいれば回りの人はほとんど視界から消えるからわからなくなってしま。家庭に地域にいればそれなりに認識されていたかもしれない、こういう人がこれからは多くなって来る。老人は施設に隔離され長い間いてもそこで回りで知るものもなく死んではじめてあれそんな人いたのかと知る。ともかく死者は必ずいまわのきわに言い残すことがあることは確かである。それは恨みかもしれない、いいことばかりではないだろう。お盆であり死者の霊を呼ぶ、これは別に日本だけの風習ではない、外国でも40日くらいは死者の霊が辺りをさまようというから鎮めねばならないとかあり同じなのである。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/4964882
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック