馬頭観世音のことなど(資料を読む)

この農家の庭の畑になぜ馬頭観音の碑があるのか不思議だ。普通は道に面して建てられるのだがこれは畑に一つだけ立てられた。やはりここが古い昔の道で馬を使っていたから供養に置いたのだろうか?これはこの農家で建てた馬頭観世音の碑なのか?ここは原町の街のすぐ近くである。やはり昔の道であるからここに建てられたのか変わった処にあったので注目した。
行倒レ死人取片付(天保8) 18 越後米小諸御城中へ附届(天保8) 19 放チ馬有之ニ付佐久郡中へ御触(天保8) 20 千曲川筏越ニ付書留(天保8) 21 御無尽申付(天保14) 22 入会山論ニ付会合(天保15) 23 密通ニ付叱り申付(天保15) 24 郷夫奉公人余荷金取定メ 郷夫奉公人夫銭取立(弘化2) 25 追分へ売女買ニ参り置去りニ致シ候ニ付取縺(弘化2) 26 傅馬人足割付(弘化2) 27 御頼金御證文献立 28 虚空蔵菩薩開帳(弘化3) 29 豊作ニ付御初穂米献上(弘化3) 30 関東御取締出役様ヨリ囚預り(弘化3) 31 御影役所御手先無宿者召捕(弘化3) 32 村芝居差留(弘化4) 33 馬士仲間馬頭観世音ノ建立(嘉永元) 3
(長野県佐久市資料)
入会山論ニ付会合(天保15)
入会権は鹿島区でも各地にあった。小山田の山神の石碑の裏に「入会権不変」と刻印されているのは江戸時代からの入会権を守るためだった。入会権はすでに江戸時代からもめていた。水の権利でも争いがあったように入会権でももめていた。明治になり官有地にされたりするときも争いとなった。だから「入会権不変」というのは入会権を守るために刻印された。山は共同の所有であり私的所有は限られていた。御留山とか幕府直轄の所有地もあり私的所有はなかった。明治になり私的所有が増大して大きな資本が会社が山を買うようなことが起こり入会権が問題になった。入会権極めて地域共同体の権利でありこれに大資本の会社の社会になり対立したのである。
放チ馬 傅馬人足割付 馬士仲間馬頭観世音ノ建立(嘉永元)
放ち馬とは家から逃げた馬なのか、野生化した馬だから持ち主がとりにこいとかの御触が出されたのかもしれない、今でもこういうことがあるから昔もあったのだ。この目次からでもいろいろなことが想像できる。追分へ売女の取り締まりがあったということは街道筋で飯盛女とかに売られる女性がかなりいた。でもそれが役所で禁止していたのかとなる。馬頭観世音は馬士仲間が建てた。荷馬車が子供の頃まだつかわれていた。その後ろにのって遊んだことがあったからだ。馬頭観世音はあそこには一つだかすぐ近くにもいくつかあるしいたるところにある。それだけ馬が欠かせない社会だった。馬頭町というのが栃木県にあったが市町村合併で消えた。ここが印象に残ったのは自転車で行き辻の別れ道になっていてここから馬頭町へ行くのかと印象に残ったからだ。こういう名前が消えることで旅の情緒も失われるのだ。
これは今日の一句一首に書いていたが郷土史関連に移した。
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