古泉千樫の短歌-明治40年-昭和2年
隣家に風呂によばれてかへるみち薄月ながら雪ちらつきぬ
今の時代、隣の風呂によばれることはない、これはやはり相当親しくなっていないとできない。今は風呂のない家はない、みんなそれなりに豊になっているからこういうことをしない、それで隣近所が助け合うこともなくなった。縁側だって隣近所の人がしょっちゅう来るからできたものである。今は縁側を作っている家もなくなっている。家は開放されていないそれぞれ閉ざされている。またそうした付き合いを嫌がるのが多くなった。家の中に入ってくるのを嫌がる。都会の人が田舎だと家の中に人を入れるから嫌だという人がいた。都会だと玄関くらいで話しして返す、普通はそうだから嫌だとなる。
この時代はまだ草鞋(わらじ)だった。底がしめってくるというときまさに実感なのである。草鞋は雨に弱いことは確かである。
冬の光りおだやかにして吾児が歩む下駄の音軽くこまやかにひびけり
下駄屋などが近くにあった。下駄を直す人が戦後まもなく子供時代にいたのである。下駄の音に風情を感じた時代である。
もの問へばことば少なき村の娘(こ)の長橋わたりけるかも
この長い橋は木の橋だろう。これは今の橋とは違っている。歩いてわたる橋なのである。だから印象に残るのだ。そういう悠長な時間を感じる必要があるのだ。
荷車に吾児(わこ)のせくれし山人もここの小みちに別れむとすも
荷車は荷物を運ぶものとして常にあった。これは車にのせるのとは違う。つまり昔はそういうことがいちいち心に残りやすい、記憶に残りやすいのだ。車だと記憶に残りにくい、早いから残りにくいのだ。そこに人間的なものが欠けてくる。車だとなにか人間のありがたみを感じない、便利な機械があり人間が存在しなくなるのである。
こういうことがいつまでも心に残るのだ。そして父と子の絆も深められていたのである。これが車だとそうはならない、人間はこうした日々の生活の中で心も作られてくる。だから現代という環境で人も作られてくる。車洪水の中ではそれに応じたせわしげな忍耐のない人間が作られてくるのだ。
吾が村の午鐘(ひるがね)のおときこゆなり一人庭にいて聴きにけるかも
山がひの二つの村のひる鐘の時の遅速もなつかしきかも
この午鐘とは寺の鐘なのか、江戸時代は土地によって時間が違っていた。
花の雲鐘は上野か浅草か 松尾芭蕉 ・・・・これは別々に聞こえてきた。今のように全部の時間が統一されていないのだ。全国一斉に同じ時間ではない、だからこそ同じ時間でもどっちの鐘の音なのかとなる。そういう現代と違った時間感覚なのである。
老いませる父によりそいあかねさす昼の厩(うまや)に牛を見てをり
老いませる・・・というとき牛を飼っている、牛とともに老いた父を見ているのだ。その歳月の長さを見ている。牛の存在感とともに父もあったのである。ただこの牛は今の牛とは違った牛だろう。
今の牛は主に肉牛になっている。昔の牛はまた別な役目があった。牛を食べていても何か違っていた。ただ家畜は家族の一員となっていた
ことは確かである。飯館村でも牛と別れることを悲しんでいたからである。
さ庭辺につなげる牛の寝たる音おほどかにひびく昼ふけにけり
牛がいるということは牛と一緒に生活していることは牛というものと一体化してくる。すると牛のリズムが人間のリズムになるから悠長な時間の中で生きることになる。現代は車時代だから車のリズムで生活している。すると切れやすい人間ができる。牛馬と一緒に生活することは動物を愛おしむ人間を作っていた。今はその代わりをペットがしてしいる。でも牛馬は生活と一体化してあったからペッとも違っていたのである。
相つぎて肺やむ人の出にけりこれの布団のかづき寝しもの
この頃国民病と言われたのが肺病である。実家の墓にも27才で肺病で死んだ人が埋まっているし肺病で死んだ若い人が多かったのだ。
素足にて井戸のそこひの水踏めり清水冷たく湧きてくるかも
昔は水道水ではないみんな井戸でありこれも実感である。
村の長みちというときやはりこれも歩くから長いのである。車だったら今は短い道になってしまう。こういう情緒は生まれないし嫁入りなどという言葉も死語になっているのだ。
(東京)
コ-ヒ-をすでに飲んでいたのは意外だった。東京だったらコ-ヒ-飲んでいた。コ-ヒ-だげの店はなく食堂だった。
このコ-ヒ-を飲めるのは東京でも少なかった。
カフェから溢れる大正ロマン
http://www.y-21gp.com/coffee/STORY/storyAG.htm
アパ-トでなくて長屋と言っていたから江戸時代の延長であった。江戸時代の長屋は人は移動していない、明治以降は人が東京のなかでも移動するようになったのである。この違いは結構大きかったのである。都会では知らない人々が集まり住むようになったのである。
異国米たべむとはすれ病みあとのからだかよわき児らを思へり
ふるさとの父がおくれる白き米に朝鮮米をまぜてを焚くくも
異国米とはタイとかの米ではありえない、朝鮮米のことなのか?朝鮮では日本人が米作りしていた。その米が入ってきたのか?東京だからこういうことがあった。田舎ではありえないからだ。
江戸時代にもどろうとしてももどれない、江戸時代はわかりにくい、江戸時代を知るには大正時代とか明治時代を知る必要がある。しかし今や明治時代を生きた人はもう生きていない、大正時代を生きた人はまだ生きている。90以上でも生きている人は結構いるからだ。ただ明治時代と江戸時代は実際は全然違ったものとなっていた。継続はあったにししても違っていた。なぜなら母は製紙工場で働いたがそうした工場というのは江戸時代にないからだ。機織りをしていてもそれは工場ではない、個々人の家でしていたのである。ただ個々人の家でも大正時代辺りは機織り機がありしていた。そういう点で江戸時代からの継続があった。戦後十年くらいでも子供のときは江戸時代と通じる生活だった。燃料は炭とか薪であり本当に電気製品も何もない貧しい生活だったからである。それは江戸時代からの継続だったのである。高度成長時代から急速に社会は変わってしまった。
車時代になったとき人は歩かなくなった。この変化は大きい。歩かないということが人間の基本的なものを失う、ここにあげた歌のように親と子の絆も失ったりする。人間の生活はあわただしく通りすぎて記憶に残らなくなっている。それは人と人の関係もそうだしすべてについて記憶に残りにくくなっている。記憶に残るということは悠長な時間の中で記憶に残されるのである。新幹線で旅しても記憶に残るものが少ない。ただ通りすぎてゆくだけである。旅も記憶に残らないし生活そのものが記憶に残りにくくなっている。そういうことが人間喪失になっているのだ。豊になり便利になっても人間の生活の質は低下しているのだ。老人になると記憶だけになる。あなたの一生で記憶されたものは何ですかとなると意外とないことに気づく,それは現代の生活が機械中心であり人間中心でないからである。また人間は集団化組織化されると数として非人間化される。統計の数であり一人一人の人間の生活の質は計れない、そこに統計の欺瞞がある。人間の生活の質は何なのかというとき,かえって江戸時代が質的にはまさっていた。いくら豊に便利な生活しても人間の生活の質が向上するとは限らない、低下する場合もあった。人間はこの世に生きるのが一回限りとしたら人の出会いでも生活でも印象深いもの意義あるものとしたい、そういうことが現代生活では消失した。車でぶっとばすとすっきりするとかなるがそういうのはあとでふりかえると何も残らない、記憶に残らないのである。記憶に残る生活はやはり自然と共に悠長な時間を過ごしているときなのである。万葉集などはそうした人間の生活の記憶として残っているのだ。
鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
これも何でもないような歌なのだけど印象深いものがある。鶉は素朴なものであり古い里でありそこに長く住んでいる親しい人がいる。その人は互いに何も言わないでもわかりあう仲かもしれない、村の中でともに長く暮らした友である。それは村という全体の中で育まれた仲である。変わらぬ仲間である。相見つるかもというとき万葉集には常に相という言葉が出てくるのも人と他者が常に一体関係にあったから相がでてくる。今の言葉では相はでてこない、他人は突き放したモノののような対象物になっている。そして人間が一体化する背景の自然や村がなくなっている。人間の一体感はただ団体とか組織で作られる。宗教であれ組合であれ会社であれ何であれ組織団体として分類されて数化されるのである。人間が一対一で向き合うことはいない、人間は一つの経済単位消費単位一票とか物化されている。宗教団体でも一票として数として統計化される。その数をふやすことが権力化するからだ。だから人間が会うということは現代ではない、ただ貨幣を通じて物を媒介するものになる。人間を金として計算するのが普通である。だから人間の生活の質は低下している。