2007年08月04日

近くの箪笥職人の話


近くの箪笥職人の話

 
●職人は技を盗むため遍歴
 

近くに箪笥職人が住んでいた。川のベンチで休んでいて団子食えなどと呼ぶから行ってみたら俺は箪笥職人だったという話になった。80才の小柄な人だった。私の家の近くに住んでいたのだが私の家のことはわからなかった。その語ることがちょっと変わっていた。
「オレは東京辺りに行って技を盗むのに眼つきがおかしくなったんだよ
職人は技を盗むんだ、絶対に技を教えないから盗むんだよ・・・」
ええ、技を盗むことは聞いていたがそんなにしてまで盗むから目つきまでおかしくなる・・・泥棒のような目つきになってしまうのか?職人というと日本でも遍歴して技を磨くことはあった。同じものを作るのでも作り方が違うらしい。いろいろなやり方があると言っていた。建具屋とか職人は現代の大量規格生産で消えていった。箪笥というと仙台箪笥が有名で何でもその人は腕がいいのか特別呼ばれたとか言っていた。

 

ボクの義父はもう亡くなったけれど、いろいろ遍歴した後、晩年は本州の西端の辺鄙な村で椅子直しの職人をしていた。ボクが会ったときは、病気で、仕事もしていなかったけれど、いかにも職人的な、小柄だけれど頑固に自分を通すというタイプの人間だった
 

彼はドイツの大工さんで遍歴職人とかジャーニーマンとかいわれている職人さんで当時、マイスターの資格を取るため3年間、旅をしながら仕事をする修行を行っていた。 はるばるシベリア鉄道に乗って仕事をしながら、小樽まで野宿やヒッチハイクを繰り返しやってきたのだ。

ドイツの古い中世の市の中に靴職人の家があった。その家の屋根は低いから背が今よりはかなり低い人たちだったという、外人というと背が高いが昔は背が低かった。80才となるとやはり背が低い人が多い、職人は小柄な人が多かったのか、一般的に背が低いからそうともいえないだろう。職人は一般に頑固で気分しだいで作るときも作らないときもあったとその人もいう。近くには漆屋もいて日がな漆を塗っていたのを覚えている。漆塗りも箪笥とか昔の食器には不可欠だったからセットととして物作りに必要であり軒を並べていた。家具屋でも注文で作ることがあった。私の机はそうだった。家具屋は作られたものを売るのではなく自ら作って売っていたのだ。生産する場所でもあったのだ。商店街もいろいろな店屋が魚屋、豆腐屋、籠屋、下駄屋、炭屋・・・とかが軒を並べそこでは実際に竹で籠も作っていたのだ。
 
今はたいがい作られたものを売るの商売である。九州とか遠くから外国からも作られたものを食料品でも売るのが店屋だが作ることと売ることが一体になっていたのが昔は多かった。そのことは直接生産者と結びついていたのである。今はインタ−ネットで野菜と米を直接売るのとにている。生産者と直接結びつくから安心だという。中国産の食料でも日本産でもあまりにも遠くから運ばれ売られるものは安全が保証できなくなる。昔は職住一体であった。その住む場所が生産の場所であり仕事場でありまた使用される、消費される場所だった。今の消費されるというより使用される、使用価値としての経済だったのである。消費というと無駄なことが多い現代の感覚であり実際無駄が多いのである。
 
●会津との人的交流木挽き(こびき)渡世)


その人は桐を使用するために会津の方まで仕入れに行ったという。会津というと江戸時代にも出入りがあった。桐箪笥となると最高級品だった。
 

高平村今野喜右衛門方へ、会津領藤室村徳蔵と申すもの、木挽き(こびき)渡世にて二カ年以前より参り居り候ものに御座候処、兼ねて心実ものに候間、近々御当領の御百姓に相成り度(たき)心願の由、此度当分家抱えに仕り度段願申し上げ候
(相馬藩政史)

 
木挽きというと職人なのか?江戸時代は職人の遍歴は渡世と言っていた。これはヤクザの渡世と同じである。ある村の記録に
 
日雇い25戸、大工20戸、木挽渡世14戸、漁師10戸・・・・

同「村方明細帳」からは酒・しよう油・穀物類・質物・古着・履物などを扱う商人、大工・家作職・木挽・髪結などの職人(主に農間渡世)が60人以上もいたことがわかる
 
商売のはじまりは米経済から貨幣経済となり農間渡世からはじまった。
 

・村内需要:村内分業としての農間渡世が存在する
・村外需要:宿場や往還筋等の地域的特色により村外の人々の需要に対応る

http://www.fcronos.gsec.keio.ac.jp/wp2004/wp04-002.pdf(農間渡世)
 
江戸時代でも他国からの人の出入りがかなりふえてきたのだ。木挽きも一つの職人としての技が必要だったのか会津では木材の産地だから木挽きが多かったことは確かである。こういう他国から渡世したきた人は木挽きの新しい道具ももってきたから厚遇されたということもあるかもしれない。
 

天王寺鋸の名の由来は、江戸時代に大阪の天王寺の鋸鍛冶が新しく柄の曲がった鋸を作りました。土佐や三木・会津で多く作られ北海道向けに2尺の大きな物も作られたそうです
http://www9.ocn.ne.jp/~y.kanna/furukobiki.htm

 
そしてなぜこの人が定着するようになったのか、会津に帰らなかったのか?仕事の関係で今でも定着する人はいるから不思議ではない、ただ農業をすることで定着できる、木挽きだけでは定着できないのが江戸時代だったのか、江戸時代の経済は農業が基本でありそれで他の仕事が渡世とか流れ者的な言葉として使われていたのだ。
 
インタ−ネットでこれだけ連関して調べることができた。郷土史にはインタ−ネットはかなり役立つのである。相馬藩政史というのを資料として読んでいれば確かに郷土史に役にたつ、それが膨大だからキ-ワ-ドで調べられれば便利なのである。インタ−ネットはこうして次々とキ-ワ-ドで調べられるから便利なのだ。農間渡世ということで長い論文を書いていたりすることはキ-ワ-ドでしかわかりにくいからだ。
posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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