翁草二輪に水やり我がもとに置きて静かに朝の日さしぬ
聖書のなかにはのネブカデネザルブ王のことを書いたがこれもなんらかの精神の病のことでありヨブ記にも現代に通じる病気のことが書いてある。
肉は蛆虫とかさぶたに覆われ、皮膚は割れ、うみが出ている。」(7:15)
「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、わたしは生き延びている。」(19:20)
「わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち、骨は熱に焼けただれている。」(30:30)
ヨブの皮膚は恐ろしく腫れ上がり、熱を帯び、黒くなり、ひび割れを起こし、膿が生じ、蛆までも湧く始末でした。
「病は肌着のようにまつわりつき、その激しさにわたしの皮膚は、見る影もなく変わった。」(30:18)
「遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていた」(2:12)
この皮膚病のために、ヨブの外貌は恐ろしくゆがめられ、友人ですらその姿が見分けられないほどでした。
「息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。」(19:17)
「泣きはらした顔は赤く、死の闇がまぶたのくまどりとなった。」(16:16
これはおそらくらい病(ハンセンシ病)のようなものだった。らい病になったものは血縁さえたたれて隔離された。しかしこれは伝染病でもなく危険なものでもなかったら家族というのも無情なものだったのだ。認知症をかかえた家族の方がもっと苦労しているからだ。「息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。」認知症になると子供に悪い影響があるから一緒にできないとかもちろん妻にも嫌われる。
私のうめきは水のように流れ出る
私の恐れるものが、わたしにのぞみ
私のおそれおののくものが、我が身に及ぶ
私は安らかではなく、またおだやかではない
私は休みを得ない、ただ悩みのみがくる
ヨブ記(3−24)
私の恐れるものが、わたしにのぞみ
私のおそれおののくものが、我が身に及ぶ
おそれおののくもの・・・これは精神の病であり認知症もその一つに思えるのだ。これは本人もそうだがその回りのものも「私は安らかではなく、またおだやかではない、私は休みを得ない、ただ悩みのみがくる」こうなってしまうからだ。こうした災難は義人だったヨブにも起こった。認知症にしてもそもそもこんな過酷な病気になるのはなぜか、その人に原因があるのか?確かに一部はあった。その人の人生とか性格とかが影響してなることは確かにありうる。自分は何も悪いことはしていないというが何か自分自身が見えずに一方的に言っているのだ。ヨブの場合はそういえても認知症になった人はには何かしらの欠陥に由来している。ただなぜ認知症になるのか?これは様々な要因がありわからないのだ。
恐れおののくもの・・・これは過去にもあったし今もある。それが癌であったりエイズであったりらい病であり精神の病だったのだ。認知症も不可解な病である。ヨブはまだ精神の病にはかかっていないし身近にもいなかった。いづれにしろこの恐れおののくもの・・・これは病に如実に現れるが他にも戦争とか自然災害とか人間の生活には必ずあるものだし結局認知症にかかった自分の家族も戦争−自然災害−認知症・・・・これら恐れおののくものを経験した人だった。ほとんどの家庭や人生でこうした経験を課せられる。しかしその人生の最後に過酷な刑罰のような病気に課せられるのは酷いとなる。それが高齢化社会でいたるところになる人がふえてくるのだから高齢化社会は呪われた社会だとなってしまうのだ。長寿に神の祝福がないことが解せないのである。