2011年10月12日

山中節の情緒(旅の思い出)


 

山中節の情緒(旅の思い出)


 



山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


谷にゃ水音峰には嵐 あいの山中湯のにおい


「山が赤なる木の葉が落ちるやがて船頭衆がござるやら」にもある通り春から秋にかけて北海道附近に出稼ぎしていた船頭さん達は冬が近づくと家に帰り一年の苦労を癒すためこの山中に来てゆっくり湯治をしたのである。


山中や菊は手折らじ湯の匂ひ 芭蕉


「山中温泉はまことに効験あらたかな温泉である。かの不老長寿の霊薬と伝える山路の菊を手折るまでもなく、湧き出る湯の匂いは菊に劣らず香しく、浴するほどに命の延びる心地がする。



太平洋と日本海の情緒は正反対である。情緒的には日本海側の方がいい。あの情緒は他ではなかなかない情緒である。日本海には何か古い家並みがあり昔のものさびた感じがあった。一方で太平洋な明るさはなく陰気な感じになる。雪国だから余計にそうなる。

山中温泉には行っていないから地理的なことがわかりにくい。そんなに山の中なのかとうことが実感としてわからない。やはり一回行ったところならイメ-ジしやすいし関心をもつ、ただこの辺りの白山郷がありそこには行っているし近くだった。そこは閉ざされた本当に山深い平家落人の里にふさわしい所だった。山中温泉はそんな山奥とも地図で見た限りでは違っている。ただかなり山間を奥に入った場所である。こおろぎ橋などがあり名前としてはいい。でもそこが山中節のように山が高くさえぎっている場所のようにも見えない。ただ日本は山にさえぎられている所が実に多い。山国である。こういう俗謡でもそういうふうになるのが日本の風土である。北前船の船頭がここで湯治した。長く滞在するからそこに恋も生まれた。そういう歴史を感じて泊まるのとただ泊まるのでは違っている。歴史がある場所とない場所では違っている。北前船にまつわる話しはいろいろある。太平洋側にはそうした情緒が不足している。何か人間的なもの情が深いものを感じる。日本海とか越前越中越後はそういう土地柄でもある。
今回原発事故などで新潟県にも浜通りから相当数の避難者を受け入れてくれた。新潟県はそういう情が厚いという面があった。ただ現代は旅の情緒がない、山中温泉に行ったことがない、たまたまテレビで見て知った。ここに芭蕉が長く滞在したのも知った。ここの湯にいやされたのである。でも温泉ホテルが今は意外と情緒がない、そもそも豪華なホテルは保養にはいいが情緒がない、旅人は木賃宿のようなものがにあっている。今はやたらホテルが多い、それで旅の情緒がそがれるのである。旅が自由になりどこでも行ける時代だがかえって本当の旅がなくなったというのも皮肉である。貧しいときの方が旅の情緒があり旅があったし旅人になれたのである。自分は旅がしたかったから豪華なホテルには泊まりたくない、もちろん金もなかったから安宿を探して歩いていた。長く旅しているとやっぱり安宿なのである。その点ヨ-ロッパは旅しやすい、安宿やユ-スホステルで安く泊まれる。年配の人も泊まっている。一方で外人用のホテルは高く豪華なのである。ヨ-ロッパは長旅する人が多いからそうなった。やはり旅にいい時代は戦前であり江戸時代だったのである。豊になりすぎて便利になりすぎて旅が自由になって旅がなくなったというのも皮肉である。豪華ホテルには泊まりたくない、また高すぎるということもある。ふらりと旅して気ままに泊まるホテルではない、だからどうしても今はビジネスホテルに泊まることになった。

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天正8年(1580年)山中温泉の上流真砂の地に、滋賀・福井方面より山づたいに良材を求め移住した工人たちの「ろくろ挽き」が始まりとされております。
 その後、技術・製品ともに川を下り、手工芸品として山中温泉の浴客への土産品として広く生産されるように、1700〜1800年代にかけて工人たちのたゆまぬ努力と創意工夫や全国の名工を招いての技術導


江戸時代後期天保年間(1830〜1844)の蒔絵師 会津屋由蔵(あいづや よしぞう) 弘化年間(1844〜1848)の糸目挽き(いとめびき)名工 蓑屋平兵衛(みのや へいべい) ました。

1830年から1844年(天保年間から弘化年間)には会津の板物師桜田門兵衛が当地へ赴き会津の塗法を伝え、1848年嘉永)には会津の蒔絵師角田東斉によって会津蒔絵法が伝わり、川連漆器に見られる沈金、蒔絵といった装飾の、基盤も大きく築かれていった。



山中漆器で面白いのは会津の漆器が技術指導に最初に来ていたことである。すると会津の漆器は技術的に古く優れていたとなる。相馬焼きも技術指導のために益子焼きには相馬焼きの技術も入っていた。益子焼は笠間焼きからはじまった。焼き物の歴史を調べるとやはり興味深いものがある。浪江の大堀焼きは一体どうなってしまうのだろうか?焼き物は土が大事だとするとその土地に根ざしたものとして生まれた。ただ今は土も他からもってくるものが多いから青ヒビとかの技術は移住先でも残すことはできるのだろう。



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新蕎麦やむぐらの宿の根来椀


根来塗の名称は紀州(和歌山県)の根来寺から来ており、当時僧徒が自分の寺で使うものを作りました。根来塗の歴史は古く、正応元年(1288年)に遡ります。お寺で、僧が日常的に使う為、きれいに塗るというより、使いやすさ、丈夫さに 主眼をおき、黒漆で何回も塗り重ね、最後に一回 朱漆を塗り、仕上がりとしました。


この根来碗で新蕎麦を食べた。その味わいはなんともいえぬものだった。蕪村は食べることにかなり風流を感じて食べていた。江戸時代はともかく土地柄がにじみでるようなものが多かったのである。今はそういう土地柄の産物が喪失した。どこでも何でも手に入るということはみんな規格化した製品になったのである。おみやげが今は一番つまらない、まずいものが多い。名前だけになってしまった。そういう土地の情緒が喪失したのが現代でありそれと同時に旅の情緒も喪失したのである。江戸時代は旅に一番向いた時代であったが旅がしにくい時代でもあった。人間はだから時代によって恵まれたといっても必ず失われたものがありその失われたものは取り戻すことがもはやできないのである。

山が高うて山中見えぬ 山中恋し山にくや


日本はどこでもこういう風土なのである。隣の村も山にさえぎられて閉ざされている。隣の村に行くには峠を越えねばならない、そういう風土である。だから隣の村さえ神秘的になる。一旦去れば山にさえぎられて見えなくなるからだ。そしてし互いに閉ざされた中で暮らしていたのである。それで飯館村だったら大倉村と佐須村は民情が一致しないから合併できないということにもなった。狭い村々で民情が違っていたのである。それは山があるから今のような大きな市はできないのである。


あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり 大伴家持


山に隔てられている。その山の向こうを常に思っているのが日本の風土である。山がにくいとなるのもそのためである。山さえなければ会えるのになとなる。それで日本はトンネルが多くトンネルの技術も発達したことがつくづくわかるのである。


 

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