2011年10月09日

人間の業(わざ)-文明の限界 (原発事故はその象徴として起きた)

 

人間の業(わざ)-文明の限界

(原発事故はその象徴として起きた)

原発事故を今の時点ではなくて人類史から考究する必要もある。エネルギ-革命として必然的に原子力が夢のエネルギ-として生まれた。人間は絶えず技術革新してきた最終段階として原子力発電があったのかもしれない、また兵器にしても核兵器が最終兵器として生まれたように人類を滅ぼすものとして生まれたようにそういう意味合いがある。青銅器や鉄の兵器ができたとき殺傷力が格段にましたから殺戮される人の数も増えた。戦争では兵器の差は大きい。マヤとかインカがスペインの馬と鎧と甲冑の少人数の兵隊に侵入されて滅びたことでもわかる。技術が世界を変えたのである。船にしても大航海時代になったのも船の技術革新があったからである。戦争はどうしても武器が大きな力を発する。武器が発達すれば国家も強大化できる。それで最終的に現実に日本に原爆が落とされたのである。

エネルギ-革命としては石炭から石油になったとき飛躍的技術革新が起こった。石油の応用範囲は非常に広い。原子力さえ石油で成り立っているという人もいる。車も石油なくしてはありえなかった。ガソリンがこの辺からなくなったとき車は使い物にならなかった。足を奪われたら現代では陸にあがった河童になってしまった。身動きとれなくなった。物資も入らなくなった。車は石油なしでは動かない、船も飛行機もそうである。石油なしでは今の文明は成り立たない、正力松太郎が戦争に負けたのは石油がなくなりエネルギ-戦争に負けたからと原発を導入したと言っているのもエネルギ-がそれほど大事なものだったからである。石油がないなら今の文明は存続しえないのである。でも石油は中東に依存して中東紛争にまきこまれるし運ぶのに遠いということで危険がともなうコストがかかる。すると原子力発電が非常に魅力的に見えたのもわかるのである。そこに落とし穴があったのである。

人間の業-技(わざ)には限界がある。プロメテウスが火を盗んで過酷な刑罰を受けたように人間の業には限界がある。その限界を越えようとしたときイカロスは墜落した。人間の業(技)には常に呪いが付与されている。そういう宿命にある。鉄を生産して便利なものになってもそうなると自然破壊は巨大化して殺戮も飛躍的に増大してしまう。人間の作り出す業には常に何かそうした呪いが付与されている。だから仏教では業であり職業になる。職は業をともなっているから職につかなかった。これも現代文明では明治維新以降はそうした業となる職が増えた。会社でも増えた。財閥でも利益のみを追求すると他国とも戦争をいとわないとなる、業をもつことになる。これまで江戸時代までは侍だけが戦争していた。しかし明治以降は会社が大きくなり強大化して戦争をしかけたり後押ししたりする。財閥が戦争のあとおししたとかアメリカでもロックフェラ-などが戦争を企画して巨額の金をもうけたとか常に言われるのはそのためである。職業が会社という巨大な業となってしまった。江戸時代には個々の職人がいて会社はない、個々の職人が自分の技を磨いていたのである。明治以降の変化は余りにも大きいものだった。

その時、職の業(ごう)が巨大化した。そして会社は必ずブラックな所をもっている。ブラック企業が増大したのである。銀行とか保険とか金融業はそもそもブラック的なものだという詐欺的なものだというとき説明されると確かにそうなのかと思う。紙幣を勝手に作り出すのが銀行だというのも説得力がある。金融業には何かいかがわしいものがある。それで世界的金融業となると何かいかがわしいとなる。世界的を金によって支配する悪魔の仕業だとなる。江戸時代の職人なら個々人だからブラック的なものはない、仕事にのみ精進していたのである。明治以降はブラック的なものが増えたのである。


原子力発電を作った東電もそういうブラック的会社だった。それが政府と一体化していたのだ。財閥と一体化して戦争が起こされたというときと同じだった。原子力発電は巨利を生み出すから政治家から官僚からマスコミから地元からあらゆる人が群がったのである。それだけ原発の魅力が大きいものだった。原発が成功していれば中東紛争にまきこまれる必要もないメリットはあった。石油に依存することはそれだけ中東紛争にまきこまれる割合が強くなる。原発があればそういう危険を回避できる。そこでアメリカでも他の国でも原発にシフトしたのである。つまりそれは石油文明から一段上のエネルギ-革命をめざした結果だった。それが今回の事故でその革命に失敗した。人間の技の限界を見たのである。人間の技術には限度がある。医療にしても限度がある。癌がやはり直せないのも医療の限界を感じる。人間の技術には限界がある。そして人間の技(わざ)はわざわいというように日本でも技(わざ)はわざわいをもたらす呪われたものをもっていたのである。そのわざわいが原発に現れたのである。つまり人間の文明はエネルギ-問題で限界に達してしまった。ということはこれ以上人類はもう地球の資源を食い尽くして環境破壊をしてはならないという天からの神からの警告である。

今回の津波にもそういう警告があった。人類はこれ以上人口が増えたりGDPをふやしたりすることはひかえねばならない、そんなにもう地球は経済発展できない、成長できない、限界に達している。
それをおしすすめれば地球に歪みができる、それが反動として巨大な災害として自然から復讐される。そういう時代になっているから資本主義的無限の資源の消費や経済発展は抑制すべきものとなっているのだ。

この抑制することが人間には一番むずかしい。キリスト教も仏教も宗教は必ず欲の抑制を説く、それは理にかなったことである。そういうことは2千年前にすでに東西の賢者が説いていたことである。

人間の欲を無限大に拡大すれば地球環境は破壊されるしモラルも破壊されるしあらゆるものが破壊され滅亡にいたる。人間が欲で滅びるというのはそのことである。原発は人間の限りない欲望の象徴として生まれた。そこに危険があり落とし穴があり事故につながった。人間の技に対する呪いだった、わざわいだった。科学技術はあらゆるものをかなえてくれる人間の願望、祈り、宗教ともなっていたがそこには限界があったのである。科学には限界がないと信仰のようなものがあるがそこには原発でも医療でも限界があるのだ。その限界を認識して文明を見直さないとまた危険なことになる。それは人類滅亡に通じているのだ。

posted by 老鶯 at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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