2011年10月05日

秋の夕暮短歌十首(南相馬市立病院の思い出)

 
秋の夕暮短歌十首(南相馬市立病院の思い出)

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病院の窓



大原にその人あれや街遠く老いて淋しき秋の夕暮


一か月病院にありぬそのことの思い出深き秋の夕暮


病院に勤めし人のそれぞれにいかにしあらむ秋の夕暮


病院の窓により見ゆ大原へ秋の夕焼け美しきかな


一時は浪江の人とともにありその人いづこ秋の夕暮


原発にちりぢりになる故郷の人の絆や秋の夕暮


原町に実家の墓のありにしを参り菊さし帰りけるかな


原町の母の実家は今はなし墓のみ残り秋の夕暮


あわただし時の移りやおさまらぬ原発の騒ぎ秋となりしも


病院の窓辺に鳩のとまりしを心なごみぬ秋の朝かな


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秋の朝病院に目覚め原町の街に光や我は生きるも


南相馬市立病院がなぜ心に残っているのか?一か月も入院したということにもあった。病院の一か月は長いのである。でもあの市立病院は4階か5階だった。ともかくあそこは眺めが抜群だった。海も見えるし山の方も見えた。その山の方に住んでいたのが大原の人だった。その人とはずいぶん話した。大原のことがよくわかった。大原は鹿島区だったら橲原と同じ位置にあった。山際であり街からは遠い、橲原は奥座敷としたが大原もにていた。ただ大原という土地にはあまり関心がなかった。その人の話しを聞いて関心をもったのである。その人は80近くかなり重病で話すことができなかったのである。それが突然話せるようになった。それでいろいろ話を聞いたのである。ちょうど暇だから時間をもてあますから話を聞くのに向いていたのである。そして病院の窓から大原の方を見ると秋の夕焼けが美しかった。眺めがいいから心理的にも癒しになった。そういうことは病人の心に影響するのだ。

相馬市立病院は全く違っていた。建物は古いし眺めはよくない、ほとんど外の景色が見えない、あそこだったら入院したら嫌だなと思った。ただ医者とか看護師は悪いとは言えない、ただ建物や立地している場所が良くない、もっと高ければ市街とか海の方まで見えるようになっていた。あそこは三階くらいしかない、南相馬市立病院は見ただけで建物も立派だし眺めが抜群だったのである。なぜあのような立派なビルが建てられたのか?それなりの財源があったとなる。東電からの金で建てたというものではない、この辺では東北の火力発電所である。でも小高区に原発を建てる予定になっていたのだ。そこから金が入っていたが事故で断ることになった。双葉町の庁舎は実に立派である。南相馬市立病院とにていた。やはりあれだけのものを建てられるのは原発の金が入っていたからである。あの辺では小さい町でも合併しなくても原発の金でやっていけたのである。富岡町長の5億円入っていたとうい金庫の話題はつきない、それだけの金が入る裏付けがあるから騒いでいるのだ。原発の補償にしても何兆円となる、そんな金を東電で払うということにも驚いた。それだけの収入があったことにも驚いた。それだけの金になるのが電気事業だったのである。


いづれにしろ一カ月間の入院は不思議な思いで深い経験となった。一人は大原の人でありもう一人は浪江の人だった。その人はわずかに手を動かすだけでしゃべることもできない悲惨な状態だった。妻が来て手を握るだけであったが何か通じていた。もう一人はこれも悲惨だった。94才の身寄りのない老人でありただ肉体だけが活かされている、治療費が無料ということで活かされている悲惨なものだった。身寄りがないから誰も来ない、それが自分とにていたから恐怖になった。そして今浪江の人は一体どうなったのだうか,推測できるのは妹が郡山にいるからそっちに移ったのだろう。それにしてもあれだけの病人をかかえてどうなったのだうと思う。浪江は悲惨な状態になった。もう一人は双葉の人が二日ほどいた。双葉町にはない科がありこちらに来るほかなかった。双葉や浪江は大きな病院がないからそうなった。その人はバスで

埼玉に移動するとき妻がテレビに写っていた。もともと埼玉に娘がいるから移り安かったのである。

それにしても浪江にしろ大原でも放射線量が高いから避難地域になったようにその後は原発事故の影響を大きく受けた。大原では息子は街の市役所に勤めているからとてもあの体では農業はできないから放棄されるだろう。一人猫とともに大きな家に住んでいたのである。東電に補償されてもらった方がいいとなる。浪江の人は15町歩の田畑をもっていた。でもこれも跡継ぎがないとかあり補償された方がいいともなる。鹿島区では38町歩もっていた人が補償問題で原町区にきていた。そんなのは昔の地主の土地の広さでありやっけていけるのかとも思った。その補償額も大変なものになる。ただ農家は土地をもっていれば確実に補償される。漁師も船をもっていたりすれば補償される。その補償額は大きいのである。鹿島区は30キロ圏外でも一所帯百万支給される。ところが相馬市になると支給されない、そこに不公平があり不満がでてくる。でも補償するにも限度がある。きりがない補償になってしまうのである。


原町とは母の実家があったとこでありその墓だけは残っているから縁のあるとこである。原町はどうしても用事があり買物などで頻繁に行っている。原町が衰退すると鹿島区は不便になる。相馬市は遠いから困るのである。故郷に住んで南相馬市立病院は一番思い出深い場所となった。その病院が医者や看護師が半分になった。そのことの影響は大きい、誰か一億円寄付して病院を建てなおしてくれとあったがよほど原町区に思い入れがある人だったのか感心した。それだけ病院は大事な場所だった。病院が整備されていないと寿命が縮まることは確かである。緊急の場合は治療できなくて死ぬことにもなる。そしてなぜ医者も看護師も半分もいなくなったのかと思う。放射能の影響のためである。看護師でも若い人が多いしこれから結婚して子育てする人達だからそうなる。でも南相馬市でも山の方と違い放射能はそれほど高くないのだ。だからここで子育てができないということでもない、そして人間は簡単に故郷を離れることができるものなのかとも思う。人とのつながりがあり家族とのつながりもある。もちろん希薄な人もいるからいちがいには言えない、人とのつながり、土地とのつながりでも希薄になっているから今は移動しやすいというのはいえる。


医者とか看護師はどこでもひっぱりだこであり生活できる。そしたら放射能汚染地域に住むことをこだわる必要がない、それでも何か人とのつながりもそんなに希薄であり見捨てるのかとかなると淋しいとなる。それだけここで生きてゆくという理由がないのも淋しい、例えば金持ちは日本から今だ脱出して外国で暮らす算段をしているとか、かえって苦しいときは日本を見捨てることができる。富岡町長が郡山に家を新築したとか飯館村の村長が福島市にマンションを買ったとかすでにそういうふうに金のある人は他に移り住むことが容易な時代なのである。人とのつながりより金だとなっている時代である。逆に金の時代でないなら人とのつながりの方が大事になっている。江戸時代だったらそんな簡単に他に移れないから留まるほかない、運命共同体の一員として運命を共にするほかない、今なら金さえあれば他に移れる、もうここではまともなサ-ビスが受けられないと金がある人は移れるのである。現実に福祉関係では全国でもサ-ビスのいい市に移り住んでいる人がいるのだ。だからこれからも辺からは人が流出してゆく、市は衰退してゆく、でも何か思い入れあった人は一億円寄付したのである。その思い入れが何なのかは個々人によって違うからわからない、でもそういうものがあれば残って働く人はいる。そうすれば復興もできるがそれがむずかしていのである。



秋の病室の窓
http://musubu.sblo.jp/article/41232749.html


2010年-10月に入院の記録
http://musubu.sblo.jp/archives/201010-1.html

 
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