2011年10月02日

牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び (津波被害で消滅の危機の村)


牡鹿半島の村で再び定置網で大漁の喜び

(津波被害で消滅の危機の村)

テレビで見た大谷川浜での定置網漁は興味深かった。村落が消滅しかかっていたが漁をはじめたら魚はもどってきて大漁だった。その時漁師の顔は喜びに満ちていた。それまでまず避難所暮らしやら仮設暮らしで何もしていない、仕事がないというとき金がないというだけではない、仕事そのものが生きがいになっていることを自覚させられた。日頃何気なくしている仕事がもしできなくなったらどうなるのか?生活できなくなるということもあるが仮設で一応援助があって暮らしていけても何年も仕事がなかったら退屈するし生きがいがなくなる。その生きがいが特区にして企業に雇われるようにすればいいというがそれでは生き甲斐がなくなる。サラリ-マンになるのは嫌だいう漁師の気持ちを察してやれというのもわかる。自分の暮らしている場所が見える海で漁ができて生活が成り立つ、それが漁師にとっては生き甲斐なのである。それは農家だったら前田で働くことである。家の前の前田や前畑で働くことは充実感がある。サラリ-マンのように家から遠くへ出勤するのとは違う。つまり農家とか漁師は大地とか海と直結して一体化して生活する。自分たちの村のすぐ前の海で漁することは前田と同じ感覚である。人間の基本的生活感覚はそこから生まれたのである。牡鹿半島というと山も低いが大谷川村では清水が湧きでていて小さなサンショウウオまでいた。その清水は涸れたことがないというから水に恵まれていたことの不思議である。耕地になるような田畑はないが水に恵まれていればそれなりに生活できる。ただ鮎川は明治以降に鯨の遠洋漁業で栄えた。


鮎川は明治中期まで55戸ほどの寒村にすぎなかった。しかし,捕鯨会社の進出により,一躍,労働者がたくさん流れ込んできた。


網地島に隠居していた老人も遠洋漁業に行っていて話したことがある。鮎川は寒村に過ぎなかった。金華山は相馬辺りでも碑が結構ある。
でも金華山は古代まで歴史がさかのぼれるのか疑問である。
この辺の碑は明治以降になってから建てられたりしている。湯殿とかは古いが金華山信仰は新しいのである。

荻浜は北海道との航路があり港があり明治時代に栄えた。そこで啄木がより歌を残した。月が浦からは支倉常長の船がメキシコ回りでヨ-ロッバまで行った。東北では海への歴史がそれなりにある場所である。牡鹿半島を地形的に見ると後背地に山しかなく田畑は作れない、すると漁業だけで生きてゆくほかない、それで遠洋漁業に活路を見出すのは必然だった。そういう場所は対馬とかにもあった。山と海しかないのだ。海山の間がないから地形的に活路を見出すとなると海に乗り出すほかないのである。


今回はその漁村が壊滅的打撃を受けて村が消滅する危機に瀕している。もともと第一次産業は高齢化であり跡継ぎがなくなっていた。大学などを出せば故郷にはもどってこない、もしその土地で暮らすなら別に教育はいらない、その土地のこと海の漁のことに通じればいいのである。それは長年経験を積んだ両親とか祖父母から学べばいいのである。そこに世代間のつながりが生まれてくる。そういう生活が長い間つづいてきた。そういう生活が津波で奪われたとき皮肉なことに海に魚がもどりみんなで定置網で漁をして大漁になったときその喜びは深かった。津波で被害があっても海は死んではいなかった。海は豊かな恵みを与える海だった。海を恨んだがまた海に感謝する営みがもどった。その時の喜びは深い、人間の生活はもともと海であれ大地であれ山であれそういう自然と結びついていることにこそあった。そういうものが文明が発達したとき喪失してしまった。みんなサラリ-マンになり工員になってしまった。実際に第一次産業にたずさわるものは一割くらいになったときその価値は極端に低下したのである。現実は女川でも原発があり雇われる人が多く漁師だけで生活している人は少なくなっていた。それは漁業だけではない農業でもそうである。8割が第一次産業に従事していた時代とはあまりにも変化しすぎたのである。その時第一次産業にたずさわる人の心も変化した。農業であれ漁業であれ金にならない、跡継ぎもなくなるとか社会全体で価値が低いものとされたのである。

そのことが原発事故とも関係ないこともなかった。つまり漁業権を私的権利として原発を作るとき多額の補償金をもらっていた。浪江の請戸では5千万をもらった人もいたと白状した。それだけの権利が漁業権にはあったのだ。福島県の漁業組合ではみんな東電からもらっていたのである。この辺は牡蠣の養殖とかもないし漁業は盛んではない、だからまた容易に漁業権を売り渡すことにもなった。
でも農家でも漁師でも海と共に大地と共に山と共に生活する喜びとか価値を見出せなくなっていた。それより金になっていた。そういうことが原発を容易に建てさせた要因でもあった。現に原発のある玄海町でも漁師が反対しても金をもらっていたのである。金の魅力があまりにも大きくなりすぎたのである。それでも人間の本当の生活の喜びは山とか大地とか海と共と一体となってある所にある。

そういうことが見失われていたが津波や原発事故でそういうことが見直された。漁師が魚が踊る、大漁旗をかかげる、そこにこそ生きる喜びがあった。そういうことは金に代えられないものでもあった。それは農民でもそうだったがそういう生き甲斐とかより金だとなるとき容易に原発を誘致して手っとり早く金を得るということにひかれる。自分たちが求めていたものが何であったのか、そういうことを見直す機会にもなったことは確かである。海に大地に山に感謝しない文明生活はやはり神から見ると不遜なものだった。確かに津波はその自然からの大被害を受けたのだが人間は文明生活に浸り大地にも海にも山にも感謝しなくなっていたのである。江戸時代の生活は第一次産業がほとんどだから自然を畏れ感謝する生活をしていたのである。それが信仰にもなっていた。それが喪失したとき容易に原発が誘致されたともいえるのだ。ともかく金になればいいということでそうなったからである。それで津波が天罰だったというときそういう面も確かにあったかもしれないし人間の本来の生活を見直す契機になったのはそのことを証明している。



網地島
http://musubu.sblo.jp/article/29256713.html



再び大漁の喜び



再び魚が踊る

その魚をとらえる

鮭ももどってきた

その感触がいい

再び大漁だ

喜びが満面に満ちる

その魚を積んで村に帰る

妻や子供がそこに待っている

魚は村のものに分けられる

その喜びは深い

何にも得難い喜びがあった

久しぶりに働いた充実感

それは体全体にみなぎる

仲間とくみ交わす酒がうまい

人の絆がさらに深まる

津波はあまりにも酷かったが

海には魚がもどっていた

その魚の恵みがうれしい

再びまたここで魚をとり暮らせたら

そうつくづく漁師達は心から思った

・・・・・・


 


tairyou111.jpg


父の形見の大漁旗
http://www.daily-tohoku.co.jp/special/sansya/news/news2011/san110803c.htm


大漁旗にはいろいろな思いがこもっていた。大漁旗のキ-ワ-ドでわかった。こういうときインタ-ネットは便利である。

TBS

集落消滅の危機に・・・男たちは海に賭けた (2011/10/1 放送)

posted by 老鶯 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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