継続する時間感覚の喪失が原発の事故の要因にも
(農業や林業など自然から離れた時間感覚の危険)
江戸時代の人が言わなかった口癖の一つは「時間がない」。こういう言葉は江
戸の頃にはなかったのです。時間は無尽蔵にある。自分が生まれる前からあったの
だし、死んだ後もずっとあるのだと。
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こういうことは今信じられない、ということは現代が時間感覚でもどれだけ違ったものになっているかを示している。「時は金なり」という感覚も資本主義がはじまったときの時間感覚である。時間を効率的に使い生産力をあげる、金も土地もそうだが時間も資本なのである。江戸時代に効率的時間の使用方法が問題にならないこと自体想像もできない、現代は分刻みで効率化を目指しているのとは大違いである。つまりそれほど江戸時代は異次元の世界になっている。
社会が無数の部品化されるとき時間も断片化されている。時間は継続しているものであり土地も継続しているものでありそういう感覚がなくなっている。その感覚は農民的自然的感覚であった。農家は三代にして農家になるというのもそのためであり林業にしても木が50年で育つとなると一代だけの時間感覚では仕事が継続できないのである。江戸時代の時間感覚はだから子々孫々を考えて生活していた。それは農家であれ山の林業であれ工業的時間感覚とあまりに違っていたからだ。もちろん今の時間給などという感覚とはまるで違っている。人間は今は時間も搾取されている、奪われているのだ。工業的効率的時間の追求になったのはやはり自然から離れた生活が主流となってしまったからである。それは一般的に世界的にも近代化したとき世界共通の時間感覚になった。絶えず時間に追われる生活になった。時間がない、時間がないの生活である。時は金なり、あらゆるものが金なり金なりの生活になったのである。それが工業的資本主義の時代である。
そういう時間感覚が子々孫々のことなど関係ない時間感覚を作り出す、今時間を消費すればいい、今あらゆるものを消費する時だとなる。子々孫々のことを考える余裕もない、今の時間にすべてが費やされるのである。その中では過去の時間も失われている。今という時間があっても過去は消失している。過去からの時間がない、歴史的時間、継続の時間を生きている感覚が消失した。だから慶長地震の津浪がこの辺にあったのは400年前くらいだとするとその記録はあっても全く忘却されていたのである。その津浪は初めて津浪と表記されたから何か津浪を別なものとして認識した時だったのである。継続した時間もない、子々孫々を思う時間感覚もない、ただ今がいいければ今が豊であればいい、あとは野となれ山となれという感覚が今の時代である。だからこれだけの膨大なエネルギ-を消費している。原発に対する考え方も子々孫々のことまで考えない、目先の利益を追求するだけになる。確かにそこには農民も漁民も住んでいたがすでに資本主義的工業的時間感覚になっていて農民すらとても江戸時代のような自然感覚、時間感覚をもつことはできない、時間感覚は単に時間が別個にあるものではなく大地とか自然と一体化して時間もあり、その大地とか自然から離れた生活になったとき時間感覚も変わってしまった。みんな目先の富を求めて急ぐだけなのである。
急いで得た富は減る、少しづつたくわえる者はそれを増すことができる
はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21
欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない
箴言-28-22
結局原発問題にしてもそういうことが言える。急いで富を得ようとした。原発そのものが急いで建てたものである。その技術も未完成であり危険はわかっていても目先の利益が大きいから原発に頼るようになった。子々孫々まで考える余裕はない、時間感覚はないのである。それは世界に共通している。中国すら高速鉄道で急ぎすぎて失敗した。大陸的時間感覚の国ですら今はそうなっているのだ。文明の時間感覚はだから意識しなくても危険な要素をもっている。
自然から遊離した時間の中でいきているとおそらく時間にも復讐される。歴史をかえりみなかったのも歴史に復讐されたためでもあった。自然を考慮しないものは自然にも復讐される。それが津浪でもあった。漁業権をもっていた漁師は海を原発のために東電に売り渡した。そして金を得た。その漁業権をもっていた海岸沿いの集落は壊滅的な打撃を受けた。それで天罰だったというとき海を守るべきものが簡単に金で売り渡したということにもあった。 海に復讐されたのである。原発によって自分たちの住んでいる土地も山も海も奪われた。それはあまりにもありふれたもの自然への感謝やつつしみなどが喪失したためだろう。目前の富にまどわされたのであく。 そして子々孫々に残したのは核の廃棄物になってしまったのである。