納得いかない原発誘致の原因
双葉町や大熊町などが特別貧しかったからか?
1966年(昭和41年)
12月23日 :漁業権損失補償協定を周辺10漁協と締結する。
9月29日 :1号機を着工する。
1968年(昭和43年)3月29日 :国が2号機の原子炉設置を許可する。
1970年(昭和45年)1月23日 :国が3号機の原子炉設置を許可する。
1月26日 :1号機に最初に装荷する燃料がこの日と2月4日にGE社ウィルミントン工場より運び込まれた[33]。
11月17日 :1号機の試運転を開始する(翌年5月11日に記念式典を実施する)。
1971年(昭和46年)2月22日 :5号機の原子炉設置許可申請を提出する。
3月26日 :1号機の営業運転を開始する。
補償を受けたのは、直接三組合の請戸漁業協同組合・富熊漁業協同組合・久之浜漁業協同組合、入会五組合の四倉漁業協同組合・小高漁業協同組合・鹿島漁業協同組合・磯部漁業協同組合・相馬原釜漁業協同組合、隣接組合の新地漁業協同組合であった。
誰も原発など建設して欲しくないのですよ。
でも、本当に働き口一つない寒村なのです、地元にいたら冬場は都会へ出稼ぎです。
それでも貧しい暮らしを強いられるのです。
原発が出来る以前は、板の間にワラを敷いただけのところで眠る家もあったと聞きます。
それほど貧しい村だったのです。
若者はそんな村の暮らしを嫌って都会へ出て行ってしまう。
ますます過疎と高齢化が進む、何とかしなければ村が立ちゆかない。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6676652.html
大野駅前通りの商店街はみずぼらしい古い家が散見され、人通りも少く閑としていた。人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。人々は大熊町まで相馬藩に属しており、隣接町村が天領であるのに比べて「我々は違う」という気位の高さを誇っていた。
http://p.tl/JnMW
双葉町は夜ノ森が有名なように相馬藩主の余の森として磐城藩と境界争いがあった。広野とか大野という地名があるように野と森が多かった。だから明治時代に開拓された所でもあった。双葉町から逃れた人で相馬藩の武士の家系につながるものだと系図を見せた人が新聞社で紹介された。だからあの辺まで相馬藩だったのである。「小良が浜」というのまさにおらの浜だと境界争いがあったからだ。
しかし謎のは1970年に原発が始動したというとき、その頃は高度成長時代の盛りであった。
始動したのがちょうど大学を卒業した頃であった。でも同教生は中学で金の卵として都会に出された。都会の人手不足を補った時代であり出稼ぎ時代でもあった。でもわからないのは出稼ぎでもそれは現金収入になるのだから悪いことではない、それなりに豊にしたはずなのである。高度成長時代は商店街でも町の小さな工場でも活気にみなぎっていた時代である。それも十年間くらいは急速に成長したのである。所得倍増計画もその頃でてきたのだからそのくらい経済に勢いがあった時代である。それが双葉町辺りには及ばなかったのだろうか?
戦前ならわかる。自分の父親が葛尾(かつろう)村から丁稚として双葉町の新山に働きに出た。
富沢酒造店が今でも残っているが酒屋は大きな勤め口だった。戦前ならどこでも貧しさを極めた。戦後十年くらいはもそうだった。でも戦後十年すぎたころから急速に高度成長の時代に突入した。その恩恵をいち早く受けた人々がいる。双葉町辺りだと10年くらい高度成長の時期から取り残されたのかもしれない、それは地理的条件によったのだ。今でも双葉町辺りには大きな病院がない、泌尿器がないから南相馬市立病院に双葉町で入院した人と同室だった。その人は埼玉の加須市に避難したのをテレビで見た。タクシ-で帰らねばならないとか言っていたがあそこまでタクシ-で帰るとしたら大変な料金になる。金はあったのかもしれない、今でもそういう不便な場所であった。
人を招いてご馳走するといえば刺身が一番のもてなしであり、肉屋には牛肉がなく入手したければ平市か原町市へ行かねばならなかった。
平市と原町市に遠いということが海のチベットとかなった。でもさしみがごちそうだというのは戦後十年くらいはみんなそうだった。私の父は病気になり最後にさしみ食えるようになったが食えないと言って死んだ。その前は味噌を焼いたりして酒の肴にしていたのだ。思うに個々の家でも高度成長の恩恵にあづかったものとないものがでたが日本経済はその時うなぎ上りだったのである。確かにその頃は肉が贅沢だったかもしれない、よく子供の頃は塩引きを食べていた。肉はあんまり食べていなかったかもしれない、だんだん肉を食べるようになった。自分の家では高度成長の恩恵にいち早くあづかっていた。
だから頭が悪くても大学まで出れた。同教生で大学に行けたのは5人くらいである。でも都会ではもっと大学に行けていた。田舎からだと仕送りなど金がかかるからだ。マンモス大学であり講堂に3000人とか学生がつめこんだ。団塊の世代はとにかく人が多いからどこでもそうなったのだ。団塊の世代は高度成長の落とし子であった。そういう時代にみんな豊になりたいというのはわかる。でもその豊になりたいということが原発の誘致に結びついたのである。高度成長時代に地元に仕事がないから出稼ぎだというときそれは東北全体でもそうだった。でも出稼ぎで現金収入になり子供を大学に出した人も多いのである。だから貧しいから原発を誘致するほかなかったということがちょっと理解できないのである。高度成長時代は豊になる方法がほかにもあったはずなのである。原発がなければ何もできないというものでもないはずだった。ただ地域地域でもさらに分かれて事情が違ってくる。
東京でも千代田区は一番金持ちで恵まれた所だったとある。。区によって差が相当あるのだ。
ただ原発の恩恵が双葉町だけではない、新地まで恩恵を受けていた、特に漁業権をもっている所はそうだった。磯部でも立派な家が建ったというのはそのためだった。原発事故で放射能で漁業ができなくなったけどやはりまた東電からは補償があるから恵まれているともなる。 双葉町だけでその頃別にそうした貧乏な所は全国にあった。だからその理由で原発を作ったのはやむをえないとはならない、特別貧しかったというけど出稼ぎだったというけど東北では農家はみんな出稼ぎでありそれでも子供を大学に出したほどの収入になったからだ。戦前や前後
10年くらいの貧しさと比べると明かに原発が建つ頃の事情は違っていたのである。
原発が出来る以前は、板の間にワラを敷いただけのところで眠る家もあったと聞きます
戦後十年くらいはみんなひどかった。燃料は炭だし自分の家もトタン屋根で雨漏りがひどい家だった。戦後十年は双葉町だけではない、農家でもそういう家は全国にあった。だから特別貧しい地域だからどうしても原発が必要だったという理由に納得がいかないのである。