
伊達に抗して荒ぶる馬
竹に雀は仙台様の御紋、相馬六万石、九曜星
粛々と相馬流れ山の軍歌ひびけり
いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す
相馬の武士(もののふ)の心意気
武田流法螺貝鳴りて先陣を切るは
誰が家の旗印、馬も勇み馳せるも
御使い番−若者一の旗走りゆく
中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷
かつては山中郷も一枚加わりしも
ここに鍛えて伊達を退ける昔の武勇
いななきて荒ぶる馬は伊達に抗す
先頭に藩主の旗、最後尾に藩公奥方旗
相馬藩主の若殿を守り列なす絵巻かな
雲雀が原に今し夏の雲湧きにけるかも
馬上一せいに勇ましき法螺貝鳴りわたり
相馬の山々、大地、海にも木霊して
藩主の下に 集結して打ち揃う相馬の武士(もののふ)
先祖代々の旗印はなびきて華麗に練り歩く
相馬流山の軍歌の雄々しくひびき
藩内の社もここに総結集して雲雀が原へ
武田菱の旗の護衛に北郷の大将の紫の母衣鮮やかに
先導す一の旗の伝令の若者は駆けめぐる
雲雀が原に千の旗ゆれ御神旗を馬せりあいて奪い合う
主君の誉れを得むと馳せ上る若武者の馬よ
この時老将も勇みかつての武勲の蘇る
人馬一体、荒ぶる馬の鼻息荒しも
山中郷、中ノ郷、小高郷、標葉郷、北郷、宇多郷
代々の郷士、大地を耕し郷土を守る者たち
今雲雀が原に相馬藩の力は結集せり
夏の大空に法螺貝はひびきわたり
村々に土着して、代々の旗は眩しい光のなかにはためけり
相馬藩の隅々の力のここに総決起して伊達に立ち向かう
三百年つづきて変わらず君主をいただき
旗の役割
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma2.htm
相馬野馬追いの歴史的意義は何であったのか?祭りでも何でもそうだがちょっとしたことでも歴史がわからないとその意味もわからないのだ。相馬藩は会津をふくむ福島県の全領域が伊達藩になっていた。今でも福島県内に伊達郡があるのはそのためである。この広大な領域を治めた伊達政宗から始まる伊達藩に抗することに相馬藩は独立を保った。だから小藩ながら代々相馬藩が永続してつづいたのである。それが他から見るとわかりにくいのだ。スイスが小国でありながら独立国として維持されたことにも歴史的背景があり意義があった。韓国も中国が隣にありながら独立国として維持した歴史的背景がある。隋が迫った時も死守してそこが国境線となった。ベトナムも中国に何度も攻められたが独立国として維持された。
相馬にも伊達の国境に土手も作られていた。相馬野馬追いの行列では確かに当時の歴史が再現される。戦いのために神社も総結集して勝利を祈る。地蔵まで勝利を祈るから将軍地蔵の旗がある。相馬流山は民謡だがこれが軍歌ということも外からはわかりにくい、民謡は民衆のものだと思っているからだ。本来は平和のためにあるのだが戦争となると日本が太平洋戦争の時と同じようにあらゆるものが総動員されるのである。当時の戦争と今の戦争を比べることはできない、全然意味が違ったものであり今の時代の平和を唱えても意味がない、前にも書いたけど昔の戦いは人間的であったことなのだ。一つの絵巻物であり詩になっている。平家と源氏の戦いも那須与一とかが一時戦争を中止して殺し合いの戦争の中でも優雅にふるまう、人間的なのである。
戦争が人間的でありえたのは日露戦争までである。その後は余りにも凄惨な地獄絵図となってしまった。その最悪の象徴が原子爆弾だったのである。そして自爆テロなども全くそこには野蛮なものしか感じられない、人間的なものがない、戦争は人間にとって否定されるべきものにしても戦争はそれなりの一つの人間的ドラマであり祭りでもあった。だから昔の戦争は叙事詩として語られる詩となって残ったのである。
そちこちに出陣迫るほととぎす
帰り馬草深き道藪萱草
出陣が迫りそちこちで法螺貝が鳴りひびく、そして帰り馬とはこれは野馬追い独特のものである。雲雀が原の神旗争奪戦で旗をとって御札やご褒美をもらったものが帰る馬である。野馬追いで相馬藩の歴史は凝集されるからわかりやすいともなる。
花は相馬に実は伊達に
この意味は何なのか?実質的広大な支配権を得たのは伊達であった。相馬に花をという時、戦いで相馬は実質的に領土も拡大されないし何も得ていないが小藩としての独立の気風を残したということなのか?これは相馬藩と伊達藩が争いのあとに平和裡に和解して国造りをしたことを例えている。
野馬追いの詩(雨天野馬追い行列)
http://musubu2.sblo.jp/article/30794378.html