2011年08月21日

400年前に巨大な津浪が宮城県福島県(相馬)にもあった


400年前に巨大な津浪が宮城県福島県(相馬)にもあった


1611年慶長三陸地震の被害

北海道の南東岸でアイヌの溺死者多し(青森県防災HP)
南部・津軽:「海辺の在家・人馬等3000余溺死すと云々」(貞山公治家記録)
今泉(陸前高田市)で溺死者50人、家はほとんど流された。(気象庁)
鵜住居・大槌で死者800人、船越で50人、山田・津軽石・宮古で330人(中央防災会議)
宮古でも一軒残らず波にとられた。(気象庁)
仙台藩領:「1783人溺死し、牛馬85匹溺死」(貞山公治家記録)、「里へ下れば、一宇も残らず流失す」(同、別条)
相馬藩領:「約700人が津波で死亡」(相馬藩世紀)


宮城野区岡田地区は「荒井付近まで達したという慶長16年(1611年)12月の地震による大津波では深刻な被害を受けたが,元和(1615〜)から寛永年代(〜1644)にかけて行われた仙台藩の新田開墾奨励によって再生した」とある。また、「元和年代に、吉田権六茂友という藩士がここで八百余石の禄を受けていたが、荒廃した土地の開墾を奨励して、更に七百余石の田地を開き、計千五百石の禄を領するようになった。続いて、寛永年代にかけても、岡田・新浜の開田が盛んに行われた」とにある。
この頃はまだ慶長三陸地震経験者も存命していたはずだが、食糧増産の命題が優先されたのか、海側低湿地での新田開発及びそれにともなう新田村の取立が盛んに行われたのである。


岡田の歴史
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/13/13-05-06.htm#rekisi


古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。

(六郷の会)
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/

 

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この辺では津浪が来たという話しや言い伝えを聞かない、そうした謂われあるものもないが
松川浦では津浪の被害が大きかったが漁師の間では津浪になったら沖に船を出せということで120隻ある船の90隻が助かった。時間もあったから助かったのかもしれない、それにしてもそういう言い伝えがあったからやはり漁師には津浪を知っていた。松川浦にある津(つのみつ)神社に逃げて50人が助かったというのもその神社がいつ建てられたのか?慶長の津浪のとき建てられていたのだろうか?400年前に明かに今回と同じ様な大きな津浪がきて被害があった。それが相馬藩政記に記されていた。400年前と言ったら千年前の貞観地震とは違いそれほど歴史的遠い昔ではない、それでもなぜこの辺では津浪にこれほど無防備だったのだろうか?

それは三陸でもあれだけ津浪に襲われ被害があっても同じ様に被害にあっているのだから人間はやはり津浪より生活優先になってしまうのだろうか?この辺でも400年前に大地震があり津浪の被害があった。それがあまりにも看過されていた不思議である。400年もたつと人間はそうした記憶も消えてしまうのだろうか?それでも双葉町の原発を建てられた地域でも慶長の津浪の被害があったかもしれない、相馬であったとすればあった。すると貞観地震が千年前で昔だとして400年前となるとそうはならない、歴史的時間では短いのである。人間はそれだけ忘れやすい、記録されていてもそれをもう現実のものとして受けとめられないのである。今回は津浪が現実にあるんだということを思い知らされた。そして遠い昔のことは今にかかわっていることを再認識したのである。祇園祭は貞観地震で死んだ人を慰霊するためだという時もそれだけ祭りの起源が古いことに驚く、京都だから当然だとしてもその頃からみちのくのことは京都に詳しく知られていたのである。



海老村は屋形村から発展したから上海老であり海に面したところは下海老となる。下海老が中心になっている、人家が多いのは昔は漁村であり塩も作り江戸時代は米も船で運んでいたということが鹿島町誌からわかる。海に面して漁業があり塩作りがあり米の運搬までしていたのだから下海老村の方に人口が集中してきたことがわかる。北海老村は下海老村のあとに作られた。http://musubu2.sblo.jp/article/43585610.html


下海老村は海岸に接してありそこでは塩もとれる米を船で運べる港があったから海岸沿いに人が集中してきた。そういうことは三陸の町でもそうなった。どうしても海岸に人が集中してくるのはそこが暮らしの拠点になりやすいからである。下海老村に人が集中したのは慶長の津浪の後である。でもその津浪のことは言い伝えられていたはずである。それでもそういう危険な場所に人々は便利で住むようになった。 宮城県の岡田地区でも慶長津浪のすぐあとに開拓されているのはなぜだろうと思う。今とは事情が違うのだろう。どうしても開拓せねばならぬ切羽詰まった理由があったしか言いようがない。瀬に腹は変えられないということがあったかもしれない、三陸の港でも何度も津浪の被害があったのに海岸沿いに住んだのは豊かな漁場と便利だったからである。外からも人が入ってきている。

 
 
posted by 老鶯 at 02:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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