科学者の責任は問われない科学万能社会
(日本人の技術は優秀だという思い上がり)
社会の重要度に比して、彼らは 余り 社会の表面に その姿を見せませんね。
社会の黒子に徹しています。その科学・技術の使用で、何か不都合があっても
その発見・開発の責任は 一切 問われません。まさに、これが 彼らが 現代の
聖職者であるゆえんでしょう。 発見・開発は その祈祷であるからです。
http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/60721507.html
科学者が悪いんだと今回の原発事故でもさぼど言われないのは科学者は現代の聖職者だからでしょう。カトリックでも聖職者が不正を働いても告発できなかったでしょう。これほどの害を与えても科学者の責任が問われないのは現代がまさに科学優先の社会であり科学なくして成り立たない社会だからとなる。政治家とか官僚やマスコミがいろいろ責任を言われるけど科学者にはこれほどの害を与えても言われない、そういう風潮を作り出しているのはまさに現代が科学者優先の社会であり科学なくして成り立たない社会になっているからである。医者が神様のようになっているのもそうである。どうしたって命にかかわる問題になると弱い、医者がその時なんとか直してくれるとなれば神様に見えてくるのである。だから医療ミスがあっても問うことも普通はできない、ところが医療ミスが実際は非常に多いのである。そのミスも普通では考えられないようなミスが多いのだ。手術してガ-ゼが残していてそれが膀胱から一年後に出てきたとか信じられないようなミスがあるが訴えることもできない、自分も三回も管を取り替えて尿が出なくなったのは明かに病院のミスとしか思えない、でもそれを言うこともできない、ミスだといえば他に行ってくださいとか現実に苦しくなったときみてもらえなかった。今はこの辺りは医療で混乱しているから余計にそうなるのだ。これは怖いことだなと思った。生死にかかわるのにみてもらえいないとなる。この辺では救急医療でも支障をきたしたことがあった。遠くの福島市の方まで行ったとかある。医療は生死にかかわるから病院や医者は最も重要なものとなることがわかった。
科学というと一番医療の面で身近なのである。原子力についてなど身近にあっても関心をもとうとしても素人には手も足もでないものだった。だから近くでも何をしているのだろうとただ不安でもみているほかなかった。
●科学には限界がある
でも科学にも確実に限界がある。その限界を呈示するのも科学者の責任である。何でも可能であるとか宗教のように信仰のようになるのはやはり科学の偶像崇拝なる。また科学に何でも可能だということを期待するのも科学者にとっては重荷となりその期待に答えるために嘘を言うことにもなる。原発事故も科学者の間では原子力のことはまだまだ不明な未知な分野であることはわかっていた。危険なことも承知していた。ただ企業とか政治家から原発を不完全でも作ることを強いられたという一面がある。科学者はその要望に答える他なく不完全でも原発を作った。それがどれほど危険なものかわかっていてもそうしたのである。科学者が現代文明を担っている責任はそれだけ重い、でもその責任の重さを自覚させられない、良心的な科学者だったらとても原発は危険で日本では特に地震で危険だから作るべきではないという科学者もわずかにいた。そういう人はまったく異端視されていた。
今回の原発事故では科学者の責任は本当に重いことを知った。こんな危険なものに科学者が従事しないよとなれば原発は作れなかったからである。政治家でも企業でも科学者の協力が無ければとても原発は作り得ないからだ。
そういう点で科学者の責任は重いのだけど罰せられることもない、科学者の罰は神から火を盗んだプロメテウスでありその罰は過酷なものだった。そういう責任があった。ただその責任を自覚させられない立場にもあった。現代文明を担うのが科学者だとするときその責任も重大になる。そういう自覚をしている科学者は少ないだろう。核は人類を破滅さけるほどの危険なものだ、こんなものに手を出すべきではない、もっと畏れをもつべきだったというときそういう自覚が科学者にあればこんな事故で苦しめられることもなかったのである。だから今回ほど科学者の無責任さが問われたことはない、放射能問題でもあまりにも無責任であり生死にかかわることでもいいかげんであり実際はわからないとなっている。そして福島県民は放射能のモルモットにされただけなのである。つまり結果は10年後とかたたないとわからないのである。科学者にとってはいいモルモットができたという考えさえしかない人もいる。これで放射能の研究が進むとか思っている人もいる。科学者が優先される文明ではそうなってしまうということである。おそらく放射能を無害にできる研究も進み可能にするだろう。その実験材料が福島県民だとされてしまう。科学が宗教だとすると福島県民はその尊い科学のための生贄になれとまでなっている。
科学の進歩のために実験にされた多数の動物と同じである。それだけ科学が力をもっている文明社会だからそうなっている。
●日本人が技術は優秀だという思い上がり
日本の技術を高く評価している研究機関として、PHP研究所や三菱総合研究所などがある。これらの研究機関は、どちらも大手メーカーの御用機関となっている。PHP研究所は松下電器産業と、三菱総合研究所は三菱グループと深い関係がある。特にPHP研究所の息のかかった技術評論家や技術評論関係の著作は数が多い。
日本企業の経営者で尊敬できる人は殆どいない。しかし、事実を客観的に判断しないと社会に大きな損失をもたらすことになる。
このように、得てして人間は自分に都合よく考えたがるものだ。時として冷静さを失い、客観的な判断力を失ってしまう。特に日本人はその傾向が強い
http://www.geocities.jp/fghi6789/shizen.html#dai1shou
このサイトは経験を積んだ技術者が言っているから興味深い。日本人は技術的に優秀だとか日本製品が優秀だとかそうしたことはナショナリズム的な日本礼賛であり実質がともなっていないという。技術も客観的評価が大事だと言っている。その客観的評価が技術という分野でもむずかしい。やたら日本人は技術的に優秀だとすりこまれてきた。それは戦争のとき同じだった。日本人は優秀だ、だから日本人はアメリカにも勝つ、さらに日本礼賛が極端化すると日本は神の国だとなり宗教にまでなる。そういうところが今回の原発事故の原因にもなっていた。科学的なものは世界でも客観的に評価しやすいものだがここでもナショナリズムとして礼賛されすぎた。素人の人でも日本の技術は優秀なんだと思い込んでいたのである。技術的なものは物理的現象として客観的評価しやすい、それに加えて社会的要因が事故の原因となった。社会的要因としては科学や技術が中立的であり客観的評価をしやすいがそれも成されていない、日本人は優秀なんだから事故は起きないという刷り込みが成されていた。そういう反省が技術者から成されているのでこのサイトは興味深いものだった。他にも原発事故に関してはインタ-ネットでも膨大な発言があるから全部読むのは大変である。インタ-ネットでは権威者に対して辛辣な批判があるので本で読むより興味深いものがある。PHP研究所から出される本は過剰な日本礼賛になる右よりになりすぎるという指摘もわかった。これは国でなくても人間の思い上がりと傲慢さが破滅の元になっていることは歴史でも変わりがない、思い上がりが誇大妄想になってゆく。そういう失敗をしてきたのに以前として思い上がりがあり原発事故につながったのである。