2011年08月20日

秋の蝉(今年の秋は早い)

 

秋の蝉(今年の秋は早い)

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雨しとと遠くに聞こゆ秋の蝉

みちのくやみじみと聞く秋の蝉


秋の蝉静かに岩にひびくかな


晩年や心にしみる秋の蝉


病気でも食器洗うや朝の蝉



芸術は実際は単純なものシンプルなものだった。単純なものに真理があった。俳句などは特にそうである。短いから単純にならざるをえない、長々と書いてはいられないから俳句は単純な美というか単純な真理の追求である。ええ、こんなものが俳句なのかとさえ思う。詩は長くなるから詩書ける人の方が芸術家のように思う。でも芸術は根本的に単純なものである。真理でもそうである。そうした単純なものに深い趣き、真理が宿っているのが不思議である。仏教などはむずかしすぎる。でも新約聖書になると単純そのものなのだ。哲学になるとむずかしいものになっているが本当の哲学も最初は極めて単純なのである。それほど単純なものが真理として不朽の価値をもっていることが不思議なのである。哲学でも何かむずかしいことを追求しているから身構える、とてもついていけないとなる。そういうものが確かに現代では多い、むずかしくなければ学問ではないとなる。でも万人にわかるのが哲学であり真理であった。俳句は日本的美の単純さを追求したものであった。


今年の秋は早い、昨日辺りから急に涼しくなり秋がきた。だから今鳴いているのは秋の蝉になる。秋の蝉というときみちのくに向いている。しみじみとして秋の蝉の声を聞く、 秋の蝉の声を聞くのにふさわしい環境もある。あまり都会化した所では秋の蝉の声はひびかない、田舎の小さな町だと回りが田んぼだし秋の蝉を聞くのにふさわしい、ただこの辺は仮設住宅やら田んぼもなくなったので様変わりである。こういう環境は異常である。何かわたわたしていて落ち着かないのだ。やはりそれぞれに故郷とというとき土地をもたないと故郷にならない、浪江でも小高でも飯館村でも本来住むべき土地があった。そういうものを一時的にでも失ったとき人はどう感じるのか不思議である。ここは辛うじて住むことができるから秋の蝉の声を静かに聞いている。やはり故郷は土地と結びついているから故郷を喪失することは深刻な問題である。みんな広々とした所に住んでいたから余計そういうものを感じるだろう。原発事故の酷さは故郷を奪われることにあったのだ。そういうふうになるとは誰も想像すらつかなかったろう。事故が起きたらどうなるかなど近くの人も真面目に考えたこともないし考えられなかった。本当に原発近くの人は事故になったら故郷を喪失するということを真剣に考えねばならない、その見本が今自分の住んでいる場所なのである。


一日寝ていても食器を洗ったりしているから母はひどい認知症になっていない、姉は家事もなにもしなかった。そのことが認知症になる一因だった。家事をするようになって症状が改善したのである。女性だったら家事をしなくなったりすると認知症になりやすいことは確かである。
男性だったら仕事をしないとそうなりやすい、これは確かに認知症と関係している。別に趣味などなくても家事だけでもやっていると認知症にならないことはありうる。すべてではないにしろそういう傾向が確かにあるのだ。だからこれも統計的にも数字としても科学的根拠となる。原因はわからないにしてもそういうことは確かにあるのだ。若年性のアマツハイマ-はそれはまた別なものである。老人性はやはり頭を働かせない、体を使わないとなりやすいことは確かである。

 
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