2011年08月02日

ひぐらし(日立木村のまちばはし)


ひぐらし(日立木村のまちばはし)

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青蔦の絡む祠やまちばはし


ひぐらしや街道細くまちばはし


ひぐらしや五反田多し日本かな


月見草草むら深く咲きにつつ小雨のふりてまちばばしかな

日立木村のことについて書いたけどここは立谷村であった。この川は立谷川であり他に日下石(にっけし)川がある。日立木村はと日下石と立谷村と赤木村が合併してできた村である。ここは立谷村である。日下川と立谷川をはさんで町がある。赤木は離れている。この辺に村が三つあったことでも江戸時代は小さな村単位であった。小さな村単位で協力していた。米作りは田んぼも水の管理が大事でありそこから共同性が生まれた。祖谷では田んぼを作らないから一軒一軒あんな山に離れて孤立して家が作られたというのも気づかなかった。田んぼを作ることは共同作業なのである。米作りには水の管理が重要だからそうなる。焼き畑や蕎麦作りにはそうした水の管理はないのである。水田は水の管理と一体なのである。


町(マチ)は今の町ではない、村の中に町があり村が先である。町は一区画の意味である。町場というときやはり立谷村は当時は家が集った町場だったのだろう。町場町というのもあるから複雑になる。ここに薬師堂があり古い飢饉の供養碑がある。つまりここは江戸時代からの古いものが残っている場所だった。でもこれがまちばはしとなっているのは初めて気づいた。橋の名前には注意する必要がある。郷土史研究には小字とかの地名も知る必要がある。それが地図にはのっていないのだ。だから地図からだけではすべてはわからないのだ。地籍図が必要なのである。小さな橋は小字地名がつけられるから貴重である。

いづれにしろまちばはしというのは何か注目しないが歴史を感じる。百尺観音とかは何か歴史を感じない、ただ大きいだけで価値がそんなにないように思う。明治以降ただ大きく作ったということで関心をひいたのである。歴史的価値はない、歴史的価値あるものは必ずしもそんなに眼をひくものではない場合がある。過去はそもそも埋もれているから誰かが発見しないと生きてこないのである。この立谷の薬師堂とまちばはしと祠は何か一体となって語りかけてくるものがある。ただこの祠は古いものでないかもしれない、まず明治以降になるとそれほど価値なくなるのだ。薬師堂は前にも書いたが江戸時代でも相当古いのである。この辺が確かに昔の街道の面影を残しているのだ。
結局人間はなかなかそうした昔を感じることが気づくことができない、あの辺は松並木もあるから一番昔の面影が残っているところなのである。


今年は草が刈られないから草が伸び放題であり月見草が一杯咲いている。月見草も草とあるごとく草の一種であり草と共に繁茂する。自然はほっておくと原野化してくる。相馬市では田んぼがあるから感覚的に違っている。五反田という地名が日本に多いのはそれだけ零細な百姓が多かった。五反百姓が大勢いたのである。会津で洪水の被害にあったところでも五反田橋が流されたとかあった。水田にはひくらしが鳴くのにあっていた。それは古来からの日本の風景となっていた。ところが今年は原発で南相馬市からは水田は消えて草原化しているから風景が変わっているのだ。水田がない風景は北海道である。


   蜩(ひぐらし)は、北海道のセミではない、北海道には、

   蜩(ひぐらし)はいない、とずっと思っていた。
   鳴き声を聞いた記憶がないからだ。


北海道には蝉はいてもなにか草原地帯になると蝉がなくのもあっていない、草原と蝉はあっていない、草原と水田の感覚は相当違っているのだ。

 
 
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