これはダイサギであり大きい、普通の鷺は小さい
くちばしが黄色なのも違っている
ダイサギの一羽来たりぬ田もなしに餌を探しぬしばしあれかし
山百合と山帽子我が庭に今日も咲き暮る他は知らじも
山百合の今日一輪また咲きて健やかなれと我が祈るかも
山百合に雨打ち降りて雷鳴りぬ健やかにも咲きにけるかも
健やかに山百合二輪今日咲きにけりその命かな
その花の命のかぎり尽くしつつ咲きて散りけり何か言わなむ
尼鷺が一羽田んぼだったところにきていた。餌があるのか、蛙などいるのか、今年は蛙の声もあまり聞こえないし蝉の声も聞こえない、蝉の声は全国的らしい。去年の猛暑が影響しているのかもしれない、蝉が鳴かない今日は寒いくらいである。今年はあまり暑くならないのか?
小高の人がコンビニとかで働いている。ここでは働き場所がない、千人も来ても働く場もきもとなかった。それで困る人は相当いる。なんらか働く場所をふやす必要がある。それが一番むずかしい。相馬の方ではアメリカのソ-ラ-発電のためにパネルが寄付された。南相馬市はまだ避難区域田からそういう企業の誘致もできない、そして相馬市と福島市を結ぶ高速道路の計画の予算が出る。南相馬市は隣だ小高で立入禁止区域なのだから何か交通的に不便である。
飯館村も立入禁止区域になったら交通は相馬市-福島市になる。そこから中央と結びつくことになる。六号線や常磐線が中央と東京と直結したル-トだったがそこが断たれたのだからそうなる。その影響が大きかった。相馬市に会社を移した人もいる。相馬市はこれから発展してゆくが南相馬市は衰退してゆく。現代はグロ-バル化とか広域経済になっているのだから交通は大事なのである。それが断たれると衰退するのである。
病気になってからは健やかなことを願う、人間も60すぎたら金ではない、健康が一番大事である。健康なくなったら巨万の富があってもなんにもならない、ただ病床で苦しむだけである。
そして金で病気は直せない、老後は金が必要なのはわかるが金より大事なものがあることに気づく、若いときは金の力は大きい、しかし老後は金ではない、金では買えないものが大事になってくる。愛もそうだし知識でもそうしたものは時間の積み重ねで習得できるものである。ところが時間がなくなるからいくら金があってもできない、一億円の本や知識になるものを買ってもそもそもも時間がないから消化できないのである。時間は買えないのである。旅するのだって苦しくなる。まあ、船で世界一周などはできる。つまりもう何かするのにも時間切れなのである。
健やかに咲いている山百合、そうして健やかに咲いている時間は長くはない、今健やかに咲いている姿は明日はないかもしれない、それは花だけではない、人そのものがそうなってくる。
今生きている命はそう長くはない、健やかな日は長くはない、だからこそ今咲いて生きることは命なのである。
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ここで弥陀の光の中に生きる命を短歌にしている。そういう境地とにている。
命二ツの中に生きたる桜哉
芭蕉(野ざらし紀行)
年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山 西行
ここにでてくる命(いのち)をライフとかしたら重みがでてこない、命(いのち)という大和言葉にしてその重みがでてくる。今見ている桜、それは今世でもう二人して見ることはない桜である。
あなたとともにこの桜を見る人がいるだろうか?桜は今は盛りと美しく咲いている。その前で二人はその美しい限りに咲いている桜を見ている。まさにそのことの中に二つの命があることの喜びがある。しかし本当にそうした美を見る二人がいるかとなるとこの世にはいない、人間が追い求めているのはそうした自然の美ではない、ただ欲ばかりである。二人して桜を見るということはなかなかないのである。ここではただ二人ということが力強く凝集した句の力となっている。
大和言葉の命(いのち)がその力強さを作り出しているのだ。
西行の命なりけりもそうである。命という言葉に特別のものが託されている。最後の命であるからこそその歌ができた。人間は最後はみんなそうなってゆく、老後に金があっても心が汚れた人は悲惨になるだろう。最後の命がけがれたらかがやくことはない、弥陀の光も見えない、暗黒の世界になる。最後まで金だ金だと追われ求めている人も見えない、それより大事なものが最後にある。最後に見るべきものは美しい清浄なるものであるべきだし接する人もそうである。
だから最後に孫に財産残すとか孫が生きがいだというのはわかる。すでに息子娘は財産だけを欲しいとかこの世の汚れに染まりすぎている。でも孫はそうではないからそうなるのだ。
人間は本当は最後の日を知り生きれば充実した生を生きることができた。それは誰でもふりかえって思う。そうなると真剣に生きるし本当に価値あるものを求める。一つの花を見るにしてもこれを見るの最後だとなると見方が違ってくる。人間は最後は死刑囚であり刻々と死が近づいてくる。それを自覚していない人もいるけど現実にそうなってゆく、もう元にはもどれない、ただ死があるだけになる恐怖の世界になるのだ。人間は死ぬ時はやはりキリストの光でも弥陀の光でも後光につつまれて死ぬのが理想である。死はあまりにも無惨なものとしてしかない、人間がどんなに栄華を極めても死によって無惨に打ち砕かれる、それが耐えられないのだ。死んだら病院ではモノのように早くかたづけてくださいとかあとはモノのように焼かれて灰になるだけである。それが耐えられないのである。本当に病院でも身近でも余りにも人間の死が無惨すぎる、それがショックなのである。ともかく命の限りに生きて花なら咲いて散る、それで一生は終わる。
そういうふうに生きる人は少ない、それを悟ったと時間は消失しているのが人間なのである。