2011年07月27日

山百合

liliysunn.jpg
 


雷鳴りて旅人去りぬ遠くへと


山百合の今日開きて一杯に朝日を受けてここに咲くかな


山百合の今日開きて夕されば雷の鳴りにき我がなお生きむ


健やかに山百合開く朝日さし昨日の雨の玉と光りぬ


ひたすらに蝉のなきにしこの夕べたちまち終わる人の生かな

六号線からではなく遠回りしてこっちの方に自転車で旅している人に二人であった。相馬市と福島市を結ぶ高速道路の予算が出た。六号線はいつ開通するのかわからない、常磐高速道も大幅に遅れるだろう。でも工事はしているみたいだ。物資が入らないのが苦しい。通販はアマゾンなどはできない、当たり前だと思ったことが今回のことでみんな当たり前でなくなった。
そもそもその土地に住むことなど当たり前なのに住めなくなったこと自体が考えられないことであった。


人間は健やかでありたい、でも病気はさけられずある。山百合は普通の百合よりたくましく咲く、雨にぬれた葉が玉と光っていた。今年は涼しくていい、毎日雷が鳴っている。それも長く鳴っている。気候的には今年は楽だから書きものもできる。昨日は一晩眠れなかった。自分の最後の日が近づくのを感じた。人間の命は短い、今や貴重なのは時である。残り少ない時を感じた。花を見るとてもう見れない日が来る。だから花を見るにしても今やおろそかにできない、もう不浄なものと接する時間はない、ひたすら神が与えた美しいもの見ることが勤めである。やがて見ることができなくなる。「やがて死ぬ景色も見えず蝉の声」とは死んでもやはり継続して鳴いている蝉の声かもしれない、詩人は最後の日に美しさの限りを尽くしてうたい死ぬ。そういうことが本当にあるのだと思った。


人間はそもそも不可解なものがつきまとう。神秘的存在である。特に臨終とか最後になるとき不思議なことが起こり得る。認知症の人も死ぬとき正気にもどったとかそういうことがありうるのだ。
人間の存在そのものが解明できないものである。人間がこの世にあるのは老人になればほんの短い間ということを誰でも自覚する。死ねば永遠にこの世にはいない、そのこと自体本当に不思議なことである。死ぬとき自分の一生が巻物のように巻かれる。これは本当である。
そういう不思議を体験する。

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