2011年07月07日

BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て


BS歴史館 発見!戊辰戦争「幻の東北列藩・プロイセン連合」を見て

今回のNHKの番組は興味深かった。明治維新や戊辰戦争のことは良くわかっていない。会津では落城のさい資料を全部燃やしたというのも確かな証拠が消失した。その証拠の一つとしてドイツ-ビスマルク時代のプロイセンの資料が残っていた。プロイセンに北海道を植民地として会津と庄内藩が売り渡そうとしていた。目的は武器を手に入れるためであり薩摩長州軍に対抗するためだった。スネルは武器商人であり会津藩と接近した。それは日本が幕末に欧米列強に分割統治されるような危機にあった。それで攘夷運動が起こり外国人排撃が起こった。佐幕派も起こり勤皇派も起こりと混乱する。ここから日本の歴史は世界の歴史の中に参入した。そのことが後の大東亜戦争に通じていた。なぜなら高杉晋作は上海に言って中国の惨状を実際に見聞した。中国は欧米列強に食い物にされていた。分割統治されていた。日本も中国と同じにされると危機感をもったのである。阿片戦争もそうだった。中国はその後も欧米列強やあとで日本も参入することになった。世界の権益争いが中国で起こったのである。明治維新からの富国強兵とか欧米列強に対抗するという国造りは大東亜戦争までつづいたのである。そのはじまりが明治維新の時の戊辰戦争にあった。日本が中国のように欧米列強に食い物にされるという危機感が出発点でありそれは大東亜戦争までその根底に流れていた。だから今でも大東亜戦争を肯定する右派は欧米の植民地からアジアを解放する戦争だと理由づけている。


プロイセン人武器商人シュネルという武器商人が会津藩と接近したのも欧米列強との特にフランスとの対抗意識だった。実際にヨ-ロッパではフランスと争っていた。それは韓国の百済派と新羅派が日本で争ったという説が古代にあるようににている。明かに明治維新の時もそういうことが起きた。先進文化が欧米にあり特に武器は進んでいた。それで長岡藩の河井継之助が・ガットリング銃を買って薩長軍に抵抗できた。そして会津藩は山国の閉鎖された国際性のない藩だとされていたが実際は国際的視野をもっていた。プロイセンと外交交渉して薩長軍に抵抗しようとしていた。本当にこれは意外である。確かにロ-カリズムであり会津藩は遅れをとったということが言われてきた。今回の番組では会津藩は国際的視野をもって薩長軍に対抗していた。それがプロイセンと組んで薩長軍に対抗することだった。その説明が興味深いものだった。


ドイツ人のという人が北海道開拓に最初に入った人だったことも知らなかった。北海道の産物はドイツの食卓と同じだった。ジャガイモを主食としたものや麦はパンとビ-ルでありとかその食生活は酷似していた。北海道は日本では米作りできないから不毛の地と見ていたがドイツ人だった
アイルランドは牧畜やジャガイモ栽培では適地と見ていた。北海道産のジャガイモは男爵とかうまいものがある。ジャガイモは寒冷地に適していた。イギリスでもドイツでも寒い地域なのである。だからこそアイルランドではジャガイモ飢饉が起きた。ジャガイモばかり作って飢饉になったのだ。北海道の良さを見出したのは最初は外国人だった。アメリカのクラ-クはそのあとに入ってきた。その後も会津藩の人がアメリカに開拓のために移住していたことは驚きである。

ゲルトナ-ががワカマツコロニ-を作っていたが風土にあわずもっていった種が水不足で実らないなど失敗した。 湿潤の地の日本とは風土が違っていた。満州でも米を作ろうとしたように日本人はどこまでも米を作ろうとする発想になる。米にこだわるが欧米は米は念頭に全くない牧畜が主流だから発想が根本的に違っていたのだ。北海道にも田はあるけど異質な感じになる。北海道の風土には田はあっていないのだ。一面に咲いているジャガイモ畑の花がにあっているのだ。


蝦夷(北海道)を旅した「イザベラ・バード」は、「日本はどこもかしこも誰かの土地で、焚き火も自由にできない。しかし、北海道なら、どこでも焚き火ができる」と書き残しているくらいである。

これは面白い指摘である。日本を旅してキャンプして野宿することはめんどうである。誰かの土地に田か畑でも誰でもない土地はないのだ。北海道を旅して便利なのはキャンプする場がある。今は誰でもない土地ではないにしろそういう場所が比較的見つかりやすい、キャンプ場以外でもそうい場所がまだある。


明治維新と大東亜戦争は底流でつながっていた。欧米列強に対する対抗心が日本ではつづいていた。それが中国の権益争いとなり戦争に突入した。だから今でもアジアの植民地解放戦争だったとしている。それは明治維新の攘夷の思想がつづいていたためである。明治維新を見れば大東亜戦争も予測できたかもしれない、そういう大きな歴史の流れがつづいていたからである。欧米列強に対抗しようとしたとき背伸びをしなければならない、それが大東亜戦争の敗北に通じていた。今はヨ-ロッパは衰退して中国が大国化するときアメリカと連合を計る。でも中国が巨大化するとその圧力に日本は苦しむ。そういう大国との狭間で苦しむのは世界の歴史ではある。小国は分断され苦しめられるのだ。日本もまたそういう歴史の苦しみを経験したのである。これからもやはりそういう立場にあり今度は中国やロシアやアメリカの圧力に苦しむ。


会津藩・庄内藩による日本国ポーランド化計画
http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-9b41.html


これを読むと会津藩と庄内藩は藩意識が強すぎた。自分たちの藩ばかりを死守しようとしていた。それは明治維新の時は藩が国だったのだから藩という意識からぬけだせなかった。日本という大きな国の視野にたつことができなかった。北海道は会津藩とか庄内藩があづかったものでその藩のものではない、日本のものだったけどそういう意識がなかった。
明治維新を規定すれば藩なくすこと、侍の身分をなくすこと、この二代改革のための革命だった。だからこそ藩と侍身分を残そうとした西郷隆盛が率いる西南戦争が起きたのである。その時国民軍として加担したのが会津藩士だったということでもわかる。会津藩士も結局は侍身分を会津藩ということを捨てて日本国民軍として戦った。薩摩長州に対抗するという意識はその時なくなっていた。薩長に踏みにじられた会津藩士だから復讐の念があったというより国民軍として戦ったのである。

会津藩のヒロイズムは会津藩だけにとどまるもので日本全体を視野に入れたものではなかった。会津はただ薩長にふみにじられたとういい怨念だけでは歴史は語れない、何故なら西郷の西南戦争もやはり侍や藩を維持しようとするものと侍や藩をなくそうとするものの戦いになったからである。つまりロ-カルヒロイズムでありナショナルヒロイズムとはならない、そういう問題は国と地方の政治とかでも常に起きているし東北の復興問題でも起きているのだ。
 
 
 武器にまつわる話(京都から遠かった長岡-会津藩の悲劇)
 http://www.musubu.jp/jijimondai21.htm#weapon
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