2011年07月03日

二つの岩(動かない生活が省エネに通じる)


二つの岩(動かない生活が省エネに通じる)

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神さびてしじまの深く岩二つ動かざるかなものも言わずに


故郷に大岩二つ変わらずにありし重さよ時の長きに


大岩に朝清らかに鳥の音のひびき高鳴り風の涼しき


深々と木蔭影なす一軒家行く人まれに静まりけるかな



「ぎっしりと密で」の意味の古語に「しじに」という語があり,また「縮まる,引き締まる」の意味の古語に「しじまる」という語があります。これらの「しじ」が,「しじま」の「しじ」と同じものであると見なせば,「しじま」の大もとの意味は「唇を引き締めて口をギュッと閉じていること」ということになるでしょう
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/91134.html


しじまというと辺りが沈黙に支配されている感覚になる、この解説は納得がいく、大和言葉にはそもそも深い意味があって生まれた。他の言葉だったら沈黙とか静寂の意味しかない、ここまで深い意味があることを見出した。沈黙するとき唇をひきしめる。沈黙することが禅の修行だったように沈黙することは心を平安に導く、それは一つの訓練である。余りにも騒音社会になったとき自ら沈黙を作り出すことが必要になった。沈黙の中で事物も石でも樹でも神さびてくる。

現代はあまりにも自然からかけ離れた存在になった。そこから自然を無視する、全く人工的な世界に生きるようになった。その時自然の驚異的な力もないがしろにすることるなった。自然への畏れが喪失した。それが原発事故にもつながっていたのだ。だから原発をなくすにはこれまでの生活そのものを見直す必要があると気づいたのはそのためである。生活そのものを変えるというときやはりその根底の思想も変えざるをえない、結局江戸時代的生活に戻らざるをえないのだ。江戸時代に戻りたくない、そんなことは不可能だというがそうしなければまた原発事故は起こる。


例えばエネルギ-を消費しすぎる現代の原因は何かというとき動きすぎる生活にあった。余りにも広範囲に動くモバイルな生活があった。田舎で一人車一台もっているのも動く生活が基本になっているからだ。仮設住宅でもほとんどの人は車をもっている。車なしでは生活できないのが現代である。そのことはどうしてもエネルギ-を過剰に消費する社会なのである。江戸時代の一つの特徴が動かない生活だった。ほとんど小さな村とかの単位で動かない生活だった。それは江戸でも都会でも同じだったのである。長屋では一生その長屋で住んで死ぬような動かない生活だった。めまぐるしく変わる現代からみるとそれが想像できないがそういう小さな範囲で動かない生活だったのである。万葉集の時代などももちろん人は小さな地域から動かないで生活していた。大和(ヤマト)すら実際は狭い一地域の地名だったことでもわかる。


いつの間も、神さびけるか、香具山の、桙(ほこ)杉の本(もと)に、苔生すまでに


回りの狭い範囲の自然を親しく見ていてそこが神さびたものと感じるようになった。現代の生活を文明を見直す時、明かに過剰にエネルギ-を消費するのは動きすぎることからそうなっている。その動く文明の代表が車なのである。今電気の節約だとか省エネだとかいろいろ言われるが動きすぎる文明を改めないとそもそも不可能に思える。旅ばかりして動いていた自分も言うのも変だが動きすぎることは深みあるものができない、一カ所に動かないことによって深みあるものができてくる。もちろん芭蕉のように「静けさや岩にしみ入る蝉の声」を作れたのは不思議である。なぜなら旅だとあわただしく過ぎてゆくことが多い、この句は一カ所に動かずに住んでいるような人しか作れない句である。それを可能にしたのはやはり江戸時代の沈黙社会があったからである。明治維新以来人はあまりにも動きすぎた、移動文明だった。グロ-バルに移動する文明だった。そういう文明はエネルギ-を膨大に消費する、それが原発を作ることにも通じていた。結局クリ-ンエネルギ-で補うというより減らすことが必要になる。それは江戸時代的生活と思想をとりもどすことにもなるのだ。この減らす生活も思想も必ず国家や会社やその他国民からも抵抗がある。でもそのことが今回のような原発事故につながる。減らさない限り原発は必要だとなり同じ災いをもたらすのである。

 
 
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