2011年06月28日

マスメデアは警鐘の役目を果たせなかった (原発事故を防げなかった原因の一つ)


マスメデアは警鐘の役目を果たせなかった
(原発事故を防げなかった原因の一つ)

ムラの仲間や子分であれば可愛がり助け合うが、ムラ以外の異質な人間はよそ者として排除する。政策とか、正義とか、公正さとか民主政治にとって大切な次元からの批判ではないということだ。
http://blog.livedoor.jp/man_ji/archives/51718980.html


日本人に民主主義が向いていないというとき、村単位の社会が基本になっていることがある。
社(やしろ)に合う範囲がまさに社会なのである。その反対が会社になっているのだ。民主主義が向いていないというときムラ社会を作ればそこに反対意見とかチェックする側がいなくなる。
原発も原発村となり政治家、官僚、学者、専門家、企業、マスメデア、地元・・・あらゆるものが強固な原子力ムラを形成した。その中でチェック機能があったのはマスメデアだがこれも全然機能しなかった。原子力ムラの一員となっていたからだ。佐藤栄佐久氏が原子力ムラのことを盛んに言っていた。この強固なムラには対抗できないとそして検察までこの原子力ムラの一員であり濡れ衣を着せられて逮捕された。だから


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ということがどこにもみかけない、週刊誌などはコンビニに置くだけで目立つ、それだけで宣伝効果があるのだ。でも「原発は危険だ」という表示は見かけなかった。原発反対は左翼的な少数派のものとして議論にものぼらなかった不幸がある。反原発になると左翼のレッテルを張られるからだ。つまり原発に関しては国民で議論することなどなかった。議論すること自体タブ-になっていた。マスメデアの役目とか使命感は何かというと警鐘を鳴らすことである。危険なものがあれば危険だと警鐘を鳴らすことである。マスメデアで「原発は危険だ」と警鐘を鳴らしていればみんなも注目するし気づくのである。それができなかったのはなぜか?つまりマスメデアを責めるのもいいが国民にも責任があった。マスメデアにしても国民が育て作るものであり政治家にしてもそうだし民主主義そのものが国民が育て発展させてゆくものである。マスメデアにしてみれば営利企業でありもうからねばやっていけない、そのためにはどうするか?そのことが第一義になる。それには大会社を宣伝するしくだらない大衆向けの記事をのせて興味をひかねばならない、そうしなければ売れないのだから売れなければ採算がとれなければやめるほかないからだ。本当は真面目な記事を書いて真摯なものを追求して読者を得てその読者から金をもらって会社が成り立つのが一番いいのである。もし宣伝費の方が半分とかなると結局会社や特定の団体の宣伝のためのものとなる。


現実新聞などでも半分は宣伝になっているしテレビでもそうである。宣伝費が経営の主体となるともはや公平な報道は成り立たない、でも実際はほとんどそうなっている。他の報道は聖教新聞でも赤旗でも党派の報道は偏ったものとして見る。
新潮社は創価を批判しても阿含宗は宣伝しているからある団体組織を批判するとき公平にはならない、公平に見るというときいかにむずかしいことかわかる。実際は神しかできないことである。裁判でも公平にならないのはそのためである。人間の限界がそこにある。国と国の戦争などももはや裁けない、ただ勝った方が正しいとなっているだけである。組織団体そのものが全部利権団体だからかたよっている。宗教団体が震災復興のために課税するべきだというのもわかる。利権団体として自分たちの権益の増大だけに運動している。しかし宗教団体はこういうとき寄付はしない、やはりマスメデアに批判されないように莫大な金を使うのは東電とにている。マスメデアは警鐘の役割を果たせない仕組みになっている。それは国民がそうした警鐘となるものを育てないということにもある。国民にも責任がある。今回共産党では原発の危険性を度々警告していたが国民は関心を示さなかった。それが国民的議論にならなかったのは党派としての発言であり国民的なものとしての発言ではないからだ。党派は利権団体であるからその利権にとりこまれるから抵抗がある。党派を離れて原発の危険性を指摘するものが必要だった。それがなかったことが今回の事故を起こした要因でもあった。


結局公平な報道をしようとしたら利権とかかわらないことである。でも利権とかかわらないマスメデアはありえないのだ。一地方誌だってかかわっている。宣伝がない雑誌などないし何かしら利権とかかわっている。それがわかったのは左翼系をのぞいて原発の危険性を警告した記事がほとんどなかったことである。「原発は危険だ」という警告がそちこちにあればそれだけで影響する。そこは危険な場所だと原子力のむずかしいことなどわからなくても身構える。ここは危険な場所なのだとここに立ち入っては行けないと自覚する。ところがそういう警告の表示板でもなければ危険な場所に入っているのが人間の心理だった。そしてここは危険だと書いてあるのに入ってケガしたらその人の責任なのである。ところが原発には安全の文字しかない、危険だとはどこにも表示させなかったのである。強固な原子力ムラが形成されて危険という表示はさせなくしていたのである。危険の警鐘を鳴らすには利権としてかかわっているものはできない、でも実際はみんな利権とかかわっているのだから安全神話は作られた。

結局マスメデアに警鐘の役を期待してもできない仕組みになっている。それが致命的結果になった。貞観津浪のことを東北大の教授が科学的に証明して警告していた。その人が言うには結局千年に一回起きるようなことを忠告しても誰も聞かない、予言者と同じであり無視されると。福島の第一原発でも貞観津浪のことを言ったけど軽くあしらわれ無視された。福島原発では再三危険性を指摘されていた。佐藤栄佐久氏が言うように原子力ムラにはばまれてどうにもならなかったと言っている。千年に一度のことを言っても笑われるだけだった。聖書でもノアの方舟とかで大洪水が来るとして巨大な方舟をノアが作っても笑っているだけだった。それがもし今回の津浪のように巨大な方舟を作っていれば助かった。沖に出た船はは助かっていたのだ。巨大な浪ものりきっていた。もう逃げる時間がなくなったら方舟に乗れば助かったのである。今回の津浪はそれくらいスケ-ルが大きかったのである。だから神話とか伝説が蘇った、そういうスケ-ルの大きなものを実際に見たのである。

posted by 老鶯 at 17:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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