2011年06月16日

夏の蝶(橲原と大原村)

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夏菊や仮設住宅あまたかな


橲原や黒揚羽二羽交わりぬ


大原や朝水清く秋の蝶


橲原と大原近し冬の暮

橲原は隠棲の場所にすさわしい、大原も江戸時代に大原山人と言う人が隠棲していたから山の里だった。江戸時代ならそうした奥であった。それぞれに場所の魅力がある。佐須の山津見神社のあるところも真野川の源流であり位置的に神秘的な場所だった。そこで白狼というどぶろくを作っていた人も避難せざるをえなくなった。橲原でも大原でも避難する人が出てきている。最近は橲原と大原を結び道ができたけどあそこを通る人はまれである。あれも公共事業だった。仮設住宅も公共事業であり無駄な投資の面はあった。それで地元の人がまにあわないからと作った仮設住宅は地元の経済を潤すから良かったとなる。仮設住宅に国から五〇〇億円が投資されたのだから業者にとっては大きな利益を生む公共事業になった。仮設住宅が増えて近くに町ができた感じになりにぎやかになった。それはそれで良かった。原町区は確かに保証金百万とか東電でもらえるにしても医療でも教育でも崩壊しているから住みにくくなったのだ。そして南相馬市では東電から保証金をもらった人は生活保護が打ち切られた。一五〇人が打ち切られた。そもそも今は市の財政は津波の被害やら何やら窮迫しているだろう。それで生活保護する余裕がなくなったのだ。法律的には明かに打ち切る理由がある。財政が苦しければこれから生活保護を打ち切る自治体はふえてくる。


とかく毎日何かかにか話題になるのが南相馬市である。隠棲にふさわしい場所だとも思ったがそういう世界ではなくなった。次々と問題が個人的にも公でも回りでも噴出してくる。やっぱりこれまでの平和こそまれにみる平和だったのか?江戸時代の三百年の平和もそうだった。五〇〇年前にはここにも大津波が来ていた。ただ資料が失われたらしい。江戸時代の三百年も大方平和だった。もちろん飢饉はあったしその中には困難な時もあった。でも明治維新から比べると平和だった。世界戦争という災厄もなかった。それが三〇〇年つづいたことは世界歴史上まれなことだった。それと戦後の六〇年は本当に繁栄と平和の日がつづいていた。確かに個々人的には犯罪もあったが大方平和だったのである。そして平和は長続きしなかったのである。
ここも隠棲するような場でなくなった。常に異常事態に置かれている。ある意味で戦争状態なのかもしれない、そして自分も苦しいのだ。病気とかなるのもそうだし苦しい、ただ津波で被害にあった人は楽だから今はみんながまんする。個々人の苦しみは何か小さなことになってしまった。毎日悲惨な人々が訴えるからそうなる。


仮設住宅にしてもそこは生産する町ではない、一時的な町である。生産をしないなら援助されるだけとなる。そういう街はない、市でも支えねばならないからだ。ただ原町区から会社も逃げ出してゆく、鹿島から原町に通っていた人が半分くらいと多い。相馬市とか遠くは二本松とかへ会社が移される。こんなことをつづけていたら南相馬市は崩壊してゆく。何か常に不安定な状態にあるのだ。だから何か落ち着かないのだ。やはりそうなると個々にもゆっくり仕事ができないということがある。農家で田植えもしない畑も作らないということは一体どうなるのだろうか?それでも食料は入ってくるから困らない、江戸時代だったら飢饉になっていた。そこが違っていた。だからどこにでも移って住んでくださいとなり市自体崩壊しやすいのかもしれない、江戸時代のようにその土地から離れられないというのではない、どこにでも自由に移動できる時代だからだ。ただ老人は新しい場所になじめないしそれだけの活力もなくなったから移らないだけなのである。


橲原で見たのは白い斑点の黒揚羽である。黒揚羽でも種類がある。白い斑点はわかりやい。
あそこの庭には蝶が一杯集まっていた。九輪草の外の庭だった。橲原-大原-飯館村などは
原発事故がないなら隠棲の場所としてふさわしかった。それが人が住めなくなった。でも別に自然はなくなったわけではない、花も咲いているし蝶も飛んでいるし水もきれいなのである。
その水が飲めないとなると悲しい,山村で過ごすメリットがない。ともかくまたあそこの庭の蝶を見に行こうかとなる。

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