2011年06月14日

南相馬市鹿島区右田に残った松


南相馬市鹿島区右田に残った松

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家がなくなった人がここに鯉のぼりを置いたのか?
ふつうこんなところにこいのぼりをしないから


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前畑にダリヤ明るし朝に映ゆ


凄まじき枝折れあらわ凛々しくも津波のあとに残る松かも


今はなき右田の松原防波堤崩れ打ちよす浪の音かな


なぎ倒す松数しれず根のあらわその一本のまた残り見ゆ


家はなく庭石残る茫然と石も驚く津波なるかな


もともとは庭にありにしその石の荒野に残りあわれなるかな



右田の松原は松が太いからいい松原だった。あまり注目されていないがいい松原だった。松川浦よりいい松があった。松川浦の松は細かったのである。だからいい松原とは思わなかった。ともかく今回の津波では松の被害が甚大である。どれだけの松がねこそぎ倒されたか数しれない、何十万本の松が津波で根こそぎ倒された。松原は防潮林として植えていたからその松がすべてなぎたおされた。津波の威力をそこでまざまざと見た。陸前高田市では7万本の松の一本が残ったがそれも危うくなっている。あの辺この辺より津波が激しかった。街自体が壊滅した。まるでポンペイの跡である。この辺でも磯部とか烏崎はそうなった。街とか村ごと一瞬にしてなくなったた恐るべきものだった。身の毛のよだつような津波の猛威だった。


右田だとしょちょう行っていた。駅近くの踏み切りからまっすぐな道だったが家は少なかった。
それでも家はあった。一千万で最近リホ-ムして売り出していた家があった。あの家を売った人は運が良かった、命も助かり財産として価値あるとき売ったからである。海老にあった喫茶店などをしていた別荘も1200万で売り出していた。それも土地だけは残ってももはやあんなところには誰も別荘は建てない、別荘は海側に建てる人はなくなる。日本では結構津波のことを考えず別荘を建てていた。こんな金銭的な大損失はいくらでもある。一瞬にして家も土地も財産もなくなった人たちが何万人といるからめずらしくもない。


あそこに大きな石のある庭があった。その石はどこにいったのか?写真のよりもっと大きい石だった。庭の石も津波によって流された。庭の石は荒野の石とは違う。人間の情がうつった石になっている。ペットと同じである。石に情がうつらないというかやはり庭の石は人間化した石なのである。いづれにしろ以前として異様な光景は変わっていない、これも何年かたつとそんなものかと日常化するのだろうか、それにしても一本残った松はまるで戦場で必死に生き残った侍のようである。なぎ倒された松、殺された松は部下だったのだろうか?凄まじい津波の猛威にたえて残った一本の松、痛々しくもしかし凛々しい松である。これを画家が絵にすれば名作になるかもしれない、一幅の絵になっているのだ。右田の松原は消えただ今はこの残った松の英姿を見るだけである。


前畑や前田というときなんともないようだが農家だったらまず前田が前畑が映える。そこが昔なら生活の拠点となったからである。今は遠くの会社に通うから自然な生活が失われた。前畑や前田を生活の拠点にすることが自然な人間の生活である。あそこは田中城があったところでありあそこまでは津波が来なかった。その手前まではきていた。やはりあそこは高くなっているから城が作られた。あとは低く湿地帯だったのである。


ともかく前田や前畑が生活の拠点となるのは自然であった。車や交通の便がよくなったから遠くが生活の拠点になる、それは人間にとって不自然なことである。都会では今回の地震で帰宅できない人があふれた。そして自転車通勤した人は帰れたのである。便利なものに頼っていると災害のとき困る。便利なものに頼れば頼るほどそうなるのだ。原発の事故もそうだったのだ。その災厄は何百年つづくとか土地まで耕せなくなった。津波の荒野に原発事故の放射能汚染の荒野の世界である。こんなこきになるとは誰も想像もしなかった。でもそれが今の現実なのである。


 

posted by 老鶯 at 17:07| Comment(3) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
鹿島地区では、民友新聞の相双支社の若い記者熊田由貴生君が、殉職しましたね。
瓦礫の田んぼの中で発見されたと読売新聞4月2日に出てましたが、どのあたりだったかご存知でしょうか?
第一波の津波のあと、取材に向かって、その第二波に呑まれたのでしょう。
わずか24歳の命を、大惨事のニュースをカバーするために散らせた彼と、彼のご両親のためにも、彼の無念の最期をもっと詳しく追いたいとの気持ちが高まってきました。
また海老の西畑栄さんは、ブラジルに二度連れて行った人ですので、なつかしい人物を亡くしてしまって、追悼の念しきりです。
鹿島訪問の節は、ぜひ小林兄を訪問いたしますので、よろしく。
以前、栗原氏を訪ねた帰りに小林宅に寄りましたら、夜中で、どこから入ればよいのか、入り口がわからなくて断念しました。
Posted by どみんご at 2011年06月14日 21:33
それはなかなか重大なニュ-スですね
24才の殉職ですか、痛ましいです
鹿島地区のとこで死んだのか?
津波を取材中に死んだのか
そのあとをたどるのはむずかしいでしょう
目撃者を探すのもむずかしいでしょう
第一そんな危険な所には行かないでしょうから


自分は今病気であり入院して検査したりと
家のことで忙しいです
いないときもありますし期待には答えられないかもしれませんのでよろしく・・・

Posted by プログ主 at 2011年06月15日 00:24

>鹿島区の国道6号沿いで遺体で見つかった。

6号沿いということは小島田辺りでしょう、六号線で津波がきたのはあの辺ですから
烏崎から船が一杯流れついていた、あの辺に死体も流れついた
磯部の方でも流されて助かった人もいたし死んだ人もいる
農家の前の人が見ていてその話を聞きましたから
やっばり津波の怖さを知らないからそうなったのか?
津波は浪が低くても流されてしまう、途中で何かにぶつかると体が傷つく
24才では悲惨ですね、他にも津波がきても写真機を放さない人が
その人は幸運にも助かった、記者魂とかあるのかもしれんけど
やはり津波の怖さを知っていればそこまでする必要はなかったような気はしますが
津波の怖さ知っている人は本当に少ないですからね
自分も今回のことで知りましたからそういう人多いですから・・・
Posted by プログ主(小林) at 2011年06月15日 01:03
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