2011年06月06日

三陸の港の津波被害の短歌20首 (日本の地形から考える津波の被害)


三陸の港の津波被害の短歌20首
(日本の地形から考える津波の被害)

●短歌20首


野の浜を津浪襲いぬ年なれば漁師やめるとあわれなるかも


野の浜に暮らす歳月その漁師津浪のあとに思い出語る


小さなる漁港点々津浪きて暮らし奪いぬ誰か跡継ぐ


弁天島津浪防ぎぬ助け合う小竹の村や春の日暮れぬ


細々と小さき湊に暮らせしを無情の津浪なべて奪いぬ


水なくば水汲み運ぶ老人やたくましきかな村を支えぬ


小さななる湊にしあれ水揚げの喜びのありその日思いぬ


小さなる湊も代々受け継がれそもなくれば淋しかるべし


貧しさに身を寄せあいて暮らしける三陸の湊に無情の津浪


漁師として暮らす歳月長きかな小さき湊の愛しかるべし


残谷(のこりや)の地名を残し三陸を再三襲う津浪なるかも


高台に集落作り助かりぬ先人の形見石碑尊し


今日もまた津浪の残骸トラックに運ぶや尽きぬガレキの山かも


三陸の鉄道無惨に砕かれぬトンネルくぐり人歩み来ぬ


悲しみ尽きざりしかも万人の死を償うは何にあるべし


何故の犠牲なりしも天と地と海に慟哭のやまざりしかも


何をもて償うべしや万人の死の悲しみ尽きざりしかも


東北の海岸瀬や津浪あと語り尽くせぬ涙なるかも


七万の松なぎ倒し一本の松あ残して街壊滅す


今日も見ゆ松の残骸あわれかな故郷に長く立ちてありしも



●津波の被害を受けた海岸線の相違


今回の津浪の被害は神戸の地震とは根本的に違っていた。東北の第一次産業地帯を特に海岸線に被害が集中した。その海岸線でも仙台平野から名取から福島県の浜通りは三陸のリアス式海岸地帯とは様相や暮らしも違っていた。仙台平野は伊達藩時代から開拓された田が広がるところであり三陸の漁村とは違う。その広範囲な田が津波の被害を受けたのだから漁港の被害より農業の被害が大きい。塩害で田植えもできなくなった。実際に70万本もの松を塩害を防ぐために植えられた。その松が根こそぎなぎ倒された。その松は田と関係していた。青松白砂の美は塩害を防ぐために作られたものであり土地がないために海側に田を開拓したために作られた人工的美だった。確かに漁港もあったから漁港の被害も大きいのだが三陸は背後に平地がなく牡蠣とか漁業だけで暮らしている所だった。それも零細なものであった。それは日本的典型的風土から生まれた生業である。日本の地形は平地が少ない、山と三陸のような平地がない土地なのである。平地がないからやむを得ず狭い平地に集落を作る。津波にあっても高台は不便だから平地に家を建てることになる。仮設住宅すら建てる場所がない土地である。ただ豊かな漁場がありそんな不便なところでも暮らすようになった。


日本が小さな村が生活の基本になったのは共同体の基本になったのは日本の地形がそうしたのだ。三陸にしても小さな湊が多いというとき、小さな湾があり入江がありそこが港となるか他との港とは山にさえぎられ隔絶される。そもそも日本は山が多いから隣の村は山の向こうとなり行き来もままならないから小さな村で助け合い自給自足の生活を強いられた。坂は境になり村々は地形的に隔絶された。
ただ魚は米と交換する必要があり売らねばならないとなるとき漁業から商業に変化しやすいことはあった。漁師でも商売人になる素地はあった。牡鹿半島でも唐桑半島でも三陸でも点々と小さな漁港が隠れるようにある。日本はそうした小さな港や小さな村々が多いのである。そういう地域が今回の津波の被害を受けたのである。

NHKで放映していた。小竹浜は真正面に弁天島がありそれが津波をさえぎったので被害が少なかった。松島も島があり塩釜も入江が深く島々にさえぎられているから被害が少なかった。

松川浦でも原釜は海とじかに接しているから被害が大きかった。小高い山をうしろにかかえた松川浦に面した所は被害はあっても家ごと根こそぎ破壊されていない、被害の大きいところはどこも壊滅して家の土台しか残っていない、名取辺りからは直接海に面していて被害が大きかった。この辺では磯部-海老-烏崎が壊滅した。磯部は一軒の家もなくなった。ちょっとした地形で津波の被害は違っていた。東京湾は奥深いので津波の被害は少ないだろうというのは地形から見てそう言っている。ただ隅田川を津波がさかのぼっていた。川を通じて津波がさかのぼってくるから川のあるところは危険である。四倉では広い砂浜があって比較的被害が少なかったのか?海に直接面している久之浜などは被害が大きかった。やはり丘であれ広い砂浜であれ前に津波を和らげる緩衝地帯かあるといいみたいだ。波除けブロックや低い防波堤は何の役にもたたなかった。人間の力も地形そのものは変えられない、そこに防災の限界があるような気がする。


残谷(のこりや)とかの地名が残ったのも三陸らしい。つくづく津波の後にこの家は良く残ったな感心してし見てあるったからだ。つまり今回の津波はそうした想像だけではない、実感として切実に感じることが多かった。こんなことが本当にありうるのだということを実際に見たことが違っていた。そうでなければ切実にはならない、空想的なものとして終わっている。だから残谷(残り家)という地名まで残っていることの意味は重いのである。実際に街全体が破壊される残っている家がなくなった!残っている家は貴重だったのである。


女川町野々浜

posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/45765757
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック