2011年05月31日

瓦職人が屋根から落ちて死ぬ

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瓦職人が屋根から落ちて死ぬ

●瓦職人死す


瓦直してもらったけど瓦は今回の地震で軒並み壊れた。小高の瓦屋の人が忙しく一時的な処理をしてくれた。グシは曲がっていて直す必要があると言っても今はできない、瓦屋とか建築土木関係当分忙しい。その瓦屋が屋根に上がったとき怖かった。屋根の縁を歩いていた。自分の屋根は怖いくらい高い屋根だった。その縁を歩いていたのでびっくりした。前はグシを直したがグシは真ん中だから怖いとは感じないが縁を歩いていたら滑ったりするから怖い。


前にも書いたけどアンテナとりつけたアルバイトのように雇われた人60才くらいの人が屋根から落ちて死んだ。この人はプロだけど屋根から落ちて死んだ。42才だから若い。昨日は風も雨も強かった。こんなとき仕事していたのは仕事が忙しく休むなかったためだろうか?工事とか建築現場でも危険がある。頭を通う仕事は楽と言えば楽である。でも頭が良くなければ力仕事で危険でも現場で働くようになる。今回の原発事故では頭を使う仕事より現場で命懸けで事故をおさめる人の価値が高くなった。事故がなければ原子力となると人間の頭脳が作り出すものであり現場より頭脳の価値が何百倍もの価値があった。原子力は特に最高の頭脳が必要だからである。だから給料が高くても許されるし文句は言えないことがあった。それが一旦事故になったらその価値は現場で働く人より極端に下落した。現場で放射線の中でガレキでもとりのぞいてこいとかしきりに言われる。原子力を作り出した人の責任はまさにその頭脳をになった人たちだからである。

この時期瓦職人が屋根から落ちたというのも象徴的な事件だった。

地震保険で審査する人が見にきた。5パ-セントなら保険が出るがそれまでになっていまかどうかわからない、入院して保険に入ってたら保険金が出た。自分も入っていれば10何万かもらえた。保険は意外と大事なものであり得するものである。明日は仙台の交通事故センタ-に行き保険金の交渉である。
交通が相馬まで自転車になり相馬からバスになる。相馬まで15キロもあり自転車では疲れる。電動自転車は本当に役に立った。体もなんとか動けたので一人でも介護してやっていけた。
常磐線は亘理までは復旧した。そのあとはいつ復旧するかわからない、ただ原発事故の双葉などは見込みすらないが仙台の方へはいつか復旧するだろうがその先は長いのだ。

飯館方面も立入禁止区域になったり小高から先は立入禁止区域となり回りが通れなくなる。
この辺は塀の内の刑務所化している。もちろん一日足りも自由に介護になってから出れないことも刑務所になっていた。こんなことがあっていいのかということが未だにわからない。

まあ、旅も30年したから思い出が生きがいだともなる。刑務所で平和なときを思い出して過ごす、それも老後の楽しみだとなる。


●一週間くらいの備蓄は必要


南相馬市で10人餓死したというのはやはり津波があり原発事故がありその最初の一週間くらいで助けがなく衰弱死した人かもしれない、一週間の貯えがない人は食料を調達できなかった。幸い米が一袋くらいあったからそれでしのぐことができた。米が配布されたのはかなり遅かったのだ。一週間ではない、10日間くらいから後のことである。津波が起きてからすぐは回りの援助は全く得られない、救助されるまでは時間がある。その時間に間に合わなかったら死ぬ。津波にあった救助されない人は衰弱死したとしたら餓死とは違う。そのあとに食料が欠乏して死んだら餓死になる。ともかつ一週間分くらいの食料は備蓄しておくべきである。

 
posted by 天華 at 15:21| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
この記事へのコメント
小林勇一さん。年寄りじゃないじゃん。
まだまだ旅行してください。
Posted by domingo at 2011年05月31日 18:13
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