2011年05月21日

津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低


津波で明らかになった南相馬市鹿島区の土地の高低

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東日本大震災で津波被害を受けた宮城県から福島県にかけての太平洋岸では、「貞観地震」(869年)を挟み、約450〜800年間隔で大津波が起きていたとみられることが18日までに、産業技術総合研究所の分析で分かった。
http://www.47news.jp/CN/201105/CN2011051801000727.html

人間がどのようにその土地で暮らすようになったか?それは自然の条件の制約の上に暮らすようになった。南相馬市の鹿島区を例にとれば最初に浮田国造(うきたくにのみやっこ)と文献にあり最初の国がこの地域にあった。その土地を見れば一目瞭然である。この辺では一番住みやすい所にあった。平地であり高い所だった。土地の高低はわかりにくいが鹿島の歴史をたどると自然条件に基づいて発展したことがわかる。浮田国造のある平地の高いところが最初に人が住み次に山際の高い所でありそして浮田の前の横手古墳群のある所から田中城のあった台田中が中心地になった。今回の津波でなぜ田中城があそこにあったかわかった。津波はすぐ近くまできたが田中城の回りまでは来ていなかった。田中城の回りは湿地帯だった。その前も湿地帯であり海が迫っていたのである。そして津波により土地の高低が浮き彫りにされた。真野川に沿った地点は両側は土地が低くあとから開墾された場所であった。だから小島田でも津波が六号線近くまで押し寄せたことに驚いた。島田とあるごとく湿地帯に島になっているような地形だったのだ。


それから右田ももちろんあとから開拓された場所であり大内村の前の田もそうだった。そして常磐線の鉄道の橋の下をくぐりぬけて塩崎(シオノサキ)まで津波が押し寄せていたことには驚いた。そこには船着という平安時代のものらしい地名も残っている。本当に船が来ていたからその名がついた。化石のような地名だった。そもそも塩崎というのもそこが海を前にしていたからその地名がついた。地名はそれだけ古いということである。その辺は低い土地だったのである。この土地の高低は歩いても見ていてもわからない、津波によってわかったのである。低い場所にはより深く津波がおしよせた。もともと塩崎は真野の入江とされてをり遠浅の海だった。みちのくの真野の萱原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)・・・この有名な万葉の歌の草原は地名だったと自分が書いたがまさに草原は真野の入江の港だったのかもしれない、でも笠女郎はここには来ていないのだからここを面影にまで見るということがありうるのかということで疑問に思って書いたのである。結局以前として謎なのである。ただそこが深い入江であり船着という地名や市庭があった。品物を取引する場所があったとするとなんらか港の役割を果たしていたとなる。今回の津波で一番驚いたのは八沢浦が前の入江に戻ったことだった。満々と水をたたえる入江に戻ったこと奇跡のようだった。明治時代に開拓された場所だったから大昔のことではない、それにしても夢見ているようだった。磯部も全滅したらそこはもともとは砂州である地形がはっきりした。ちょうど北海道のような荒寥とした風景になったことに驚いた。北海道はまだまだそうした原初の地形のままに残っている所が多いからである。広大な砂浜が残っているからである。


右田の松原は江戸時代からの開拓で作られた。そこはもともと海だったのである。日本人は江戸時代に海の方へ開拓をすすめた。青松白砂の風景は人工の美として人間が作ったものである。そういう場所が各地にあることはそれだけ人間が開拓した場所が多かったということである。それが根こそぎ今回の津波で破壊された。この開拓も自然条件に逆らうものだったことは確かである。なぜそういう無理な開拓がつづいたかというと日本の土地は狭く人口を増やすのに限界に達していたのである。だから幕末辺りでは江戸時代ではすでに人口を増やすことができずグラフは横ばいになっていた。つまり江戸時代は開拓で田を作り人口を増やしたのである。それが海側への埋め立てや開拓でありそれが自然条件を無視したものでありやむをえなかった。それが今回の津波でもとの原初状態に戻ったのである。そして青松白砂の無数の松がなぎ倒され流された。それは信じられない風景だった。津波の猛威をまざまざと松に残したのである。でも500年周期くらいで大津波が来ているとしたら海側に開拓が進んだ江戸時代は仙台平野や福島県の浜通りでもそうした大きな津波はなかった。三陸にはあってもここにはなかったのである。それも500年単位になるととても人間の歴史の単位も越える。だから江戸時代から五百年はそんなことは考慮しないのである。平和のうちに危険だった場所の開拓はすすめられ人口は増えたのである。


今回の津波が明かにしたのは何なのか?それは五〇〇年が過ぎて大きい津波が来たことも忘却されていた。三陸は違っていたが仙台平野から福島県の浜通りについてはそうである。人間の記憶は五〇〇年もすると失われ忘れられる。人間は忘れやすいのである。忘れたころに災害がやってくるというのはそのためである。五〇〇年も何もなかったら全く忘れてしまう。三陸とここは違っていた。でも海は怖い、だから海側に住んでいる人は浪が海が押し寄せてくる夢を見る。小学校の前辺りまで浪がおしよせてくる夢を見ていたが現実になった。夢はどんなものでも現実化するのかもしれない、誰も隕石が落ちてくるような夢は見ない、それはほとんどありえないことだからだ。海は違っている。毎日接しているから恐怖の夢を見るのである。それが現実になったのである。人間は危険を察知すま能力か弱くなっているのかもしれない、あまりの文明化で機械化で人間の五感も直感も衰退した。これだけ情報化文明化しても人間は危険を察知する能力が衰退した。震度9の地震はスマトラでも起こっているし他でも起こっているからそこに注意していれば日本でも起こるのではないかと危険を感じることができたが不思議にスマトラのことは他人事であり警報装置がなかったから津波のことを知らないから被害が大きくなったと言っていた。日本人はこれだけ地震があるのに警戒していなかったことも不思議である。

人間は今やどこでも自然条件を無視して生活範囲を拡大化している。だから災害の被害は信じられないほど巨大化する。自然に制約されていればこういうことはない、海側にはそもそも人は住めなかったからである。三陸ももともと八沢浦のような入江でありもともと平地には人は住んでいなかったのである。でも平地が便利だから住むようになった。その平地を田にしたことも確かである。田にして米を作りすることが日本人の文明でもあったからだ。田を作るにしてもやはり文明というのは自然に逆らうことになるのだ。そしていかに文明が今や自然に逆らったものとなっているか?その一つが原子力事故でもあった。これも実際は自然に逆らうものであった。何故ならどうしてもとも自然にない物質、放射性物質を作り出すようなもの毒を作り出すようなものを作ること自体が自然に逆らうものだったからである。文明はそういうことで常に自然に神に呪われている側面があった。それが津波でまざまざと見たから驚いたのである。

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posted by 天華 at 23:42| Comment(3) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処
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