2011年05月19日

戦後の焼け野原から60年経てまた焼け野原に・・・ (津波や原発事故で感じたこと)


戦後の焼け野原から60年経てまた焼け野原に・・・
(津波や原発事故で感じたこと)


双葉町は東電から金もらっているからと責められている。戦後は原始的な釜で塩を作って東京に売りに行った。つまり東京には塩すらなかった時だから塩でも売れたということである。塩田があった地帯だったのである。東京でも戦後は焼け野原で物資がなかった。物資がない時代は十年以上はつづいた。東京には物資がないから地方から集める。磐城の常磐炭田でもそうだし小名浜から船で積み出したり石炭がエネルギ-源の時があった。それから森林が木材資源となり東京に運ばれた。全国にある森林鉄道はそのためであり常磐線の原町機関区ができたのも拠点となったのもそのためである。物資がない東京に物を運ぶために鉄道も作られたのである。その後高度成長時代になり原発を作られた。

1971年(昭和46年)3月26日 :1号機の営業運転を開始する。


すでに40年は過ぎていた。40年というと結構長い。だから古くなっていることが問題にされていた。古ければどうしても事故を起こす確率が高くなってくる。その頃農家の東京への出稼ぎがはじまっていた。東北でそれで結構金を稼いだ。東北の農家でも子供を大学に出している家も多くなっていたのである。ただすでに常磐炭田が廃止になりエネルギ-源は石油に変わっていた。自分の子供のときは炭だったからこれは江戸時代と変わりなかった。炭→石炭→石油→原子力となっていた。浜通りは火力発電所も多い。南相馬市にもあり津波のとき千人も取り残されたことに驚いた。退職した人が警備員などで働いている人が多いのだ。火力発電所でもそうだが原発も働く人が多い。南相馬市でも東電の社員の人が働いていた。浪江となると現実に遠い親戚の人が働いていた。その人は東電の下請けの会社だった。結構金は入っていたのだろう。原発は浜通りではそれなりに関係している人が多い。葛尾(かつろう)村の小出屋に住んでいた人は一原発で働いていたが不幸にも死んだ。放射線が原因ではない、葛尾(かつろう)村なども山だから仕事がないから浪江の街に下りててきた。原発が働き口になっていた。葛尾(かつろう)村は自分の父親が双葉の前の長塚の新山の酒屋の丁稚になったところだった。だから親の歴史をたどれば双葉町は確かに関係していたとなる。勤めていたのは富沢酒店の近くの酒屋だったのである。

南相馬市原町区の人で大熊に勤めた人がいた。大熊というと遠いけどそこまで通うということはそこに働き口があった。原発の回りはそれなりに景気のいいところだったとなる。この辺でも原発が金になるとか働きに行っていた人がいた。小高の大工さんは近くに原発できるから景気良くなるぞとか原発ができることを待ち望んでいた。建築関係などが不景気になって仕事がなかったからである。小高では原発に強固に反対する人がいた。双葉町にはそういう人自体いなかったのか?そうかもしれない、町あげてあそこまで原発を誘致して原発の町になってしまった。


経済の方向は地方から物資や材料を東京に運ぶ時代は終わり外国から石油などを運ぶ時代、グロ-パル化の時代になった。その時すでに地方では材料や物を運び売る時代ではなくなった。何を売るかとなると労働力を売る時代になった。それが出稼ぎだった。それで現金収入となり潤った。批判されこともあったが農閑期に行くのだから別に良かったわけである。その後東京の経済は肥大化してゆく、グロ-パル化してゆくなかで地方は衰退してゆく、福島県はまだ東京の部品工場とかでまた潤っている。距離的にも近いからである。東京から近いということで福島県の双葉町が立地的に適地として選ばれたのである。原発事故がなかったら浜通りは結構経済的にも良かったかもしれない、常磐高速道も開通しつつあった。それが原発事故で一転した。放射能は第一次産業に痛手になることがわかった。基本的な土とか水とかを空気を汚染されることが致命的だった。自分としても俳句や短歌や詩に出していたようにこの辺は山あり川あり海ありで気候的にも雪はふらないし温暖で住みやすい所であった。どうしても会津とか新潟とかなると雪に閉ざされて寒いという感覚になる。海があると何か心も開放的になる。海洋性の性格が作られるのである。もちろん瀬戸内海とか違って荒寥とした船の行き来の少ない海ではあるが海は海なのである。その海によって津波の大被害を受けるとは思いも寄らなかった。海はやはり危険がひそんでいたのである。なぜならこの辺では小学校の前まで津波がおしよせた。自分の住んでいる場所から一キロも離れていなかった。良く夢でその辺まで海の水が来る夢をみる。おそらく海辺に住む人は海の水が押し寄せてくる夢を見る。それが実際に津波であり夢ではなかった。海にのみこまれる夢をみるがそれは実際に起こる津波だったのである。


とにかく今起きていることが何なのか理解することがむずかしい。南相馬市地域は今年は田植えをしていない、米を作っても売れないから作るなとか言われている。ところが相馬市では田植えしていた。田植えがないということは生物にも影響していた。蛙はそもそも田植えされた水の中にいる。だからそこから蛙が鳴く声が聞こえるのが普通である。もちろん蛙は鳴いているが少ない、雲雀は普通に鳴いている。でも白鷺は見えない、白鷺は植田の蛙を食べる。その田が今年はないだから白鷺が見えないのである。白鷺は夏の季語である。日本的な夏の風景が失われた。こんなことは今まで一千年生きてもありえないことだった。田んぼは乾燥した土がむきだしになっている。もちろん減反の休耕田はそちこちあったがこういう光景はありえなかった。

だからこれは一体何なのだろう、今住んでいる場所は何になってしまったのだろうと絶えず考える。これまでの人間の営みがたたれた。つまり放射能汚染は人間の生活を根こそぎ破壊する。飢饉でもこういうことはなかったろう。放射能はなかなか消えないということも問題である。放射能汚染に日本は初めて経験することだった。原爆は落とされたがその時は都市であり田舎の農耕地に影響したことはない、今回の被害は東北を主にした第一次産業に津波でも打撃を与えたのである。その傷はあまりにも深い。手足をもがれた感じになる。放射能汚染の貴重な研究の場になるとか追跡調査されて福島の人は実験材料にされたとか言う人もいる。確かに放射能汚染は実際にどう人体に影響するか誰もわかっていないからだ。だから貴重な資料が得られるともなる。そんなことで重宝がられるのも悲惨なことである。


原発は事故を起こした後も影響しつづける。その処理に何十年もかかるとかなると廃炉にするのにそんな時間がかかるとするそこに働きつづける人が多数必要になる。チェルノブリでは今もそうである。福島原発も同じである。湯本は温泉郷であり今はその原発で働く人の宿泊所と憩いの場所になっている。千人もの人が常時はたらくとなると経済的にも以前として影響が大きい。経済的には原発は事故後も影響を及ぼすのである。でも実際はマイナスの影響が大きすぎた。鉄道は通れない、国道も通れない、ゴ-ストタウン化してゆく街が浜通りにできるとは想像すらできなかった。津波と同じように今来ていることは悪夢なのかと思う、すでに一身上のことで自分は認知症やら犯罪やら自らの病気やら災難つづきだった。その災難のつづきとして津波と原発事故が重なったのである。これほど悪いことが重なるのは異常である。悪夢としか思えない、地獄に突き落とされたとしか思いようがない、こんなことが人生にはあるのだと思った。戦争を経験した人は驚かないかもしれない、そこで何百万人も死んだのだから万単位で死ぬことに驚かないかもしれない、そういう経験をしないものはやはり今起きていることが何なのか?現実なのか悪夢なのかわからなくなる。頬をつねってみたらやっぱりこれは悪夢だった。夢だったと一安心するかもしれない、そういう感覚からぬけられないのだ。それは津波で家も家族も失った人もそういう感覚からぬけでれない人がいる。あまりに異常なこと異様なことは人間は受け入れられない、そこに今回の津波や事故から立ち直ることのむずかしさがある。

今や無数に悲劇の人がいる。一人一人をとても語りきれない無数の悲劇の人を大量生産してしまったのである。神戸の震災もそうだったが遠いので今回の東北の災害とはまるで違ったものとして見ていた。でも司会者が家事となった中で火にやけた骨を手にしていたときは驚いた。これも異様なことがであり普通にはありえないことだった。その骨は熱かったのである。人間にはそんな異常なことが起こりうる。地獄になることがありうるのだとつくづく思った。人間は60年生きていれば必ずそうした個々人的にも災難に出会い大災害にも遭遇する。それが人生というものなのだろう。戦後の焼け野原から60年の平和がつづき平和は満喫されたのだ。それがまた戦後の焼け野原のような光景が東北に再現されたのである。

posted by 天華 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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